第7章 付録

このホームページの各箇所で、詳しい記述を避けたり、引 用文献を注記したが、その他のプロジェクトに関する論文、関連個所の抜粋、小文なども含めて、以下 に付録として収録しておく。

(1)牛糞内の温度変化
(2)尾関式浄化槽の寸法詳細、種付け、慣らし運転
(3)室内環境の総合評価
(4)数量化理論Ⅱ類を用いた地域環境計画について
(5)21世紀.京都の未来
(6)大学かUniversityか、私の経験した大学
(7)英語教育について
(8)米作りの記録
(9)新聞記事など


(1) 牛糞内の温度変化

まだキャラバンに寝泊りしていた頃、ダンボールの箱内に、牛糞をつめてその内部の温度変化を測定した。先の 論文に報告されているが、その変化の様子を引用 しておく。



図7 -1-1 牛糞内の温度変化
(i)晴天時 (ii)曇天時


(2)尾関式浄化槽の寸法詳細、種付け、慣らし運転

先の論文から抜粋したので参照されたい。



図7 -2-1 尾関式浄化槽の寸法詳細



図7 -2-2 種付けと慣らし運転


(3)室内環境の総合評価

以下の論文(Y.Sakurai et al;”Quantification of the Synthesized Evaluationof the Combined Environment”, Energy and Buildings(Elsevier), 14, p169-172, 1990)は、異なる3要因(音、熱、光)をもとに、室内の総合評価を行うときの手法を示している。その中の表や図を参照されたい。

 

 



図7-2 -1 室内環境の総合評価の具体的手法


(4)数量化理論2類を用いた地域環境計画について

新しい都市計画や地域改造を行うとき、多数のコンセンサスを得て良い結果を生むには、数量的に予測の出来る 説得力が必要である。
次の論文は地域環境評価においてどの様な要因にどの様な重みをかけているのかを見て、すなわち数量化をして、地域環境を改善する手法を生み出そうとするも のである。日本建築学会計画系論文報告集、第387号、昭和63年5月、p53~60、参照

数量化理論2類を用いた地域環境計画について
櫻井美政 石丸公典 九門宏至 堀江悟郎

はじめに
生活環境の改善を行う場合、どの環境要因をどの程度改善すべきか、定量的に比較することができれば都合がよい。そうすれば、その改善に対する経済的、技術 的難易度の数量的比較ができる。新しい地域開発を行う時も、生活環境の総合評価に影響する各環境要因に数量的重みが得られていると、開発後の生活環境評価 の定量的予測が行なえる。
本論文では、生活環境の総合評価に影響すると思われる独立要因を抽出し、それらが「良い」、「普通」、「悪い」という3クラスの外的基準の判断に、どのよ うに影響を与えるかを、一次線形加算でシミュレートして、数量化理論2類でそれらの重みづけ(スコア)を求めた。更に、ミニ・マックス法によって、判別の 分割点を求め、どのような総合スコアの時に、どの外的基準のクラスと判断するかを、総合評価の予測法として示した。
§1では、数量化の結果と外的基準の予測法を述べ、§2では、道路沿いの高騒音レベルの生活環境を取り上げて、その 改善の検討の手法 として具体的に適用した。そして、§3では、上部の人工地盤に緑地を持つ共同溝を、景観評価の数量化の結果も加味して提案した。 §4 では、更に内部相関を小さくする方法を考察すると共に、§1では各要因において満足度の意識反応をカテゴリ化したが、それらを客観化し たアイテ ムで表現する試みも提示した。

§1生活環境の総合評価の数量化
生活環境の総合評価については、古くから種々の多変量解析を用いて研究1)~3)されてきている。その中で梶1)は因子分析の結果を用い、生活効用関数を 4つの要因、安全性、快適性、利便性、保健性に重みをつけ加算する形で設定し、施設改善へと方法論を展開している。しかし、この重みづけは因子分析の結果 を用いたものであり、数量的ではあるが、生活環境の総合評価に対する直接的な評価基準、例えば、「良い、悪い」、「満足、不満足」等とどの様に結び付くの か明確ではない。この様な住民の直接的な総合評価を質的な基準として選択させる場合は、数量化理論2類4)による分析が最も都合が良い。
古川ら2)は、都市における生活環境の総合評価の構造を調べる立場から、32の要因について中都市でアンケート調査を行い、数量化理論2類により数量化を 行っている。しかし、調査が都市域に限定されていることから、文献には示されていないが、要因間での内部相関は無視できぬ程大きいことが推測される。内部 相関をできるだけ小さくしないと、即ち、各要因間の独立性を前提にしておかないと、当然数量化に影響を与えることになる。また、この結果は数量化のみにと どまり、外的基準、即ち生活環境の総合評価のどの基準に落ちるか、の判別の方法にまでは言及されていない。
梶の因子分析に用いられた安全性、快適性、利便性、保健性を軸にした生活環境要因を参照して、桜井等5)は生活環境の総合評価に対する意識構造を一次線形 性のものとして、数量化理論2類を用いて分析した結果を示した。しかし、基にしたアンケート調査が結果的には都市型の地域を対象にしたことから、その必然 として、例えば、「買物の便利さ」と「通勤、通学の便利さ」の2要因間の内部相関が大きいままで数量化していたこと、また要因内のカテゴリに対する極端な 標本数の片寄りがあったことなどから、それらの不備を取り除くべく先と同様の調査を追加し、より信頼度の高い数量化の結果を得た。
アンケート調査での生活環境に関する項目は、梶による因子分析の結果1)から内部相関の小さいと思われる21項目を抽出した。それらの項目は表-1に示す 通りである。回答は、各戸にアンケート用紙を配布後郵送により回収した。



表7 -4-1 生活環境の総合評価に関する質問項目

昭和48年には、予め概括的にみて生活環境の異なると思われる4地域、吹田市、藤井寺市、芦屋市、大阪市東 淀川区で調査を行った5)。昭和59年1月30 日ー2月4日には、前述の理由から交通の不便と思われる兵庫県篠山町、三田市、宝塚市、富田林市、和歌山市、東大阪市、滋賀県草津市等を中心に追加調査 し、郵送による169票の回答をえた6)、7)。また、昭和60年1月9日―19日の間、兵庫県川西市、大阪府豊能郡の交通の不便と思われる地域で追加調 査し、郵送による164票の回答を得た。更に、昭和61年10月には、風紀が比較的よく、緑が少なく、夜道のくらい地域としてJR西日本八尾駅周辺から 300票、昭和62年1月には、周囲の緑が多く、夜道が明るいが風紀の悪いところとして、大阪市淀川区のある地域を選び、119票を得た。
昭和48年度の調査5)では、要因カテゴリは標本が特異なカテゴリに集中したので、各カテゴリのスコアが等価に数量化されたとは言えなかった。この方寄り による影響をできるだけ減少させる事も念頭におき、3回にわたる追加調査からの標本を加え540票を選んで数量化分析を行った。
それでも21要因全てによる数量化分析では、なお内部相関が最大で約0.4と大きく、他の要因についても内部相関が大きかった。そこで、大きな内部相関を 持つ要因の一方を除外していき、結局、数量化に用いたのは8要因となった。この様に説明変数(要因)が減少したけれども、内部相関が減少したことによっ て、より一般的に後の判別分析を行うことができる。即ち、大きな内部相関のままではそれらに重複した無駄な情報が含まれるのは勿論、その数量化の結果で判 別を行うには、厳密にはそれらの要因間で同様な内部相関を持った地域にのみしか適用できないからである。なお、用いた説明変数による数量化がどの程度外的 基準を説明しえたかは相関比に示されるが、この場合その平方根ー相関比は分散の次元を持つので、相関係数の次元で対応させるためここではその平方根を用い ているーは0.83から0.73へと減少した。
その数量化の結果について、各カテゴリのスコアと偏差グラフを図-1に、偏相関係数を図-2に示す。外的基準はアンケート調査での非常に良い、良い、やや 良いを「良い」、普通を「普通」、やや悪い、悪い、非常に悪いを「悪い」の3クラスに分けた。以前0.4近くあった内部相関係数が最大0.27(表ー2参 照)となり、ある程度の改善は行えたといえよう。



図7 -4-1 生活環境の総合評価を外的基準としたときの8要因による数量化のカテゴリスコと偏差グラフ



図7-4- 2 生活環境評価を外的基準としたときの8要因による数量化を行ったときの偏相関係数



表7-4- 2 生活環境評価の8要因による数量化における内部相関
 
この時の相関比の平方根は0.73であった。生活環境を完全に総合評価する上では、さらに多くの要因が必要と思われるが、図-1におけるスコアは、カテゴ リの変化に対する重みづけを、我々が日常生活に於て定性的に感じている傾向に与えており、相関比の平方根が十分大きくなくても、この数量化の結果をこれら 8要因で生活環境の総合評価を予測するためのスコアとして用いても良いと判断した。
偏相関係数(寄与率)はその要因のカテゴリに両極端を含んでいると見かけ上大きくなる傾向を持つ。即ち、その一点を含むことによって見かけ上の相関が強く なるわけである。周囲の風紀が第1位をしめているのは、劣悪なスプロール化によって、このような両極端の一方が与えられ、見かけ上の相関が上昇したためで ある。換言すれば、周囲の風紀の低下が広域に広がっていることの表れといえよう。
外的基準への偏相関係数の強い上位の要因は、各アンケート時の数量化の結果と同様、周囲の風紀が第1位であり、騒音環境も3位であった。
ここで、外的基準を「良い」,「普通」,「悪い」,の3クラスとした時に、総合スコアにおいてどこに分割点を与えてやれば、最も大きな的中率でその1つを 判断できるかを考える必要がある。ここでは、ミニ・マックス法によって、各クラスに標本のおちる確率の不明な場合に、各クラスにおける反応が、正規分布し ているとして、各クラスに属する度数分布の分割点間の面積が等しくなるような位置として求めた。先ず、図ー3に示すように総合スコアに対して外的基準の各 クラスへの判別の度数分布が得られるとき、各クラスで総合スコアの平均値、標準偏差を求めておく。そしてそれらの値から各クラスの分布を正規分布として求 め、各クラス間の分割点を求めたとき、三者の面積が等しくなるような位置として、図のZ1(=-0.38),Z2(=1.03)を求めた。このように分割 しその面積率から求めた的中率は68%であった。なお、この分割点に対して元々のデータにおける的中率は69%であった。



図7 -4-3 最大の的中率をうるための総合スコアの分割点とこのとき数量化に用いた標本の度数分布

§2高騒音の道路沿いの高騒音レベルの生活環境
数量化のための調査とは別に、道路沿いの高騒音レベルの生活環境調査6)、7)をする機会(昭和58年7月8日ー8月3日)を得たので、その環境の評価 を§1の数量化の結果と判別法を用いて以下に検討する。
調査は、大阪市内及び近郊の主要幹線道路沿線で、夜間の騒音レベルが中央値65dB(A)前後の高騒音レベルの地域であり、約500の標本が回収された (回収率90%)。調査は表ー1と同様の項目に加えて建物構造、部屋の大きさ、窓の開閉、サッシのタイプ、遮音対策等についても聞いた。この調査において 反応した各要因のカテゴリに、すでに数量化された図ー1のスコアを与え、それらを加算して総合スコアを求めた。そして図ー3の分割点から外的基準3クラス のどれに落ちるかを予測した。その時の判別の様子を図ー4に示す。左側にしめす分類に属す総合スコアをもつ標本について、実際にどの様な反応が得られたか が右の枠内に数値で示されている。両者が一致した的中率は65%(= 350/512票)であった。これは§1で得られた判別分析における予想された的中率68%に近いものであり、これが一定の評価方法 であるこ とを示しているといえよう。



図7-4- 4 道路沿いの高騒音レベルの生活環境の予測と調査結果

2ー1.騒音環境と他の生活環境要因の比較
図ー1のスコアをみる時、騒音環境が非常に悪い時は-0.578をとり、それを普通(=0.137)まで改善するのに0.715(=0.137+ 0.578)のスコアが必要となる。これを他の要因で補うには、例えば周辺の緑では非常に悪い状態(=-0.708)から普通(=ー0.100)以上にす ることが必要であり、冬の日当りでは非常に悪い状態(=ー0.788)から普通(=-0.093)に改善することに対応する。さらに、騒音のそのような条 件は、買物の便利さや夜道の明るさや周囲の緑が「普通」の環境を持っている時、それら各々単独では、いくら「非常に良い」状態にしても高騒音レベルの環境 を改善するまでには至らない。これまで繰り返し議論されてきたように、音源対策の重要性が他の生活環境要因と定量的に対比されつつ一層明確になったといえ よう。

2ー2. 高速道路沿いの騒音環境の改善が生活環境に及ぼす影響
次に、高速道路沿いでの生活環境調査で得られたアンケート項目において、騒音環境に対する反応をそれぞれが「普通」まで改善されたとして,生活環境の総合 評価への変化を具体的にスコアを変えて求めると、図ー5の如く累積度数曲線が変化し,上位クラスへと判別が移行する部分が生じる。その標本数の変化は図ー 6に示す。この様に、他の環境要因は現状のままにしても、約27%が普通から良い生活環境を得、83%に当たる殆どの人達がこれらの地域で普通以上の生活 環境を得ることがわかる。これらの地域で 騒音対策が切望されている現状をよく物語っていよう。なお、悪い騒音環境を理由として、移転を希望する人は23%あった。そして、この調査に関して、別に 整理した結果7)によれば、音源での出力減衰を目指す立場ではなく、受音側での対策である遮音対策を行うには窓を機密性にせざるをえず、風通しが悪くなる 等の建築計画上の不都合を生じることが示されている。各住戸に対する遮音対策に要する費用や空調費のトータルそのものと、音源対策への費用の現実的な対比 が今こそ必要であると言えよう。



図7 -4-5 騒音環境の改善に及ぼす各クラス-良い、普通、悪い-の累積度数曲線の変化



図7 -4-6 騒音環境の改善による生活環境の総合評価の変化

§3上部の人工地盤に緑地を持つ共同溝
住宅街の景観を評価する場合の態度についても、種々の要因の影響の加算性があるものとして、数量化2類を適用し、どの様な要因が大きく寄与しているかを調 べた8)。評価させる景観は、カラーの立体写真で撮られたものを用い、より現場に近い状態で行える様に努力した。外的基準は、「良い」、「普通」、「悪 い」の3クラスであり、125の景観について、10人の建築学科男子学生に質問した(昭和59年ー61年)。その数量化の結果を図ー7,8と表 -3に、各々、スコアと偏差グラフ、偏相関係数、内部相関を示す。樹木の配置が最も大きく寄与し、自動車の台数、電柱・電線の寄与も大きい。



図7 -4-7 住宅街の景観評価を外的基準としたときのカテゴリスコアと偏差グラフ



図7 -4-8 住宅街の景観評価を外的基準としたときの偏相関係数



表7 -4-3 住宅街の景観評価の数量化における内部相関


ここで仮に、高速道路のような幹線道路を共同溝9)(電力、都市ガス等のエネルギー伝 送、電話線、光ファイバー等の新しい情報伝送シ ステムを含む通信線、 上水道、下水道、ごみの輸送路等を含む)として埋設あるいは半地下化し、上部を人工地盤による緑地化を行ったとする。すると、その沿線は騒音では、 0.715(=0.137+0.578)、コンクリートで囲まれた空間からの変化として周囲の緑で、0.929(=0.708+0.212)をえ、合計 1.644のスコアが増加されることが予想される。図ー3の判別グラフにおいて、もし、総合スコアが約-0.800の悪い生活環境にあったものは、他の要 因が同じ状態のままでも、0.844と上昇し「普通」の生活環境でも「良い」環境に近い状態が得られることになろう。
この様な都市型の地域では、他の多くの要因については一定レベルの満足度を持っており、騒音と景観が改善されれば、良い住環境へと評価が上がるのは当然と いえよう。更に、この手法は公害の拡散防止にも役立ち、高架道路沿いでの日当りの悪化を阻止し、宅地面積の減少等の問題も解消する。また、より広い地域へ のマス・トランスポーテイション・システムの拡張を可能にし、宅地面積を現在の2.9%10)から、例えば、約3倍の10%へと広げることも不可能ではな い。これに、よりレベルの高い住宅政策が施されば、将来の大きなストックとなりえよう。
一私企業の単なる利益追求の立場からの開発だけではなく、住民がどの様な環境を求めているか、その意識背景を基にした環境計画として意味があろう。

§4考察
4-1.内部相関を小さくする方法の検討
表-2に示す如く、0.268を最高にまだ少し内部相関が大きい。§1の数量化に用いた標本を再度用いて、内部相関のみに注目して、そ れらがよ り小さくなるように選んだ6要因による数量化の結果を、図ー9,10及び表-4に示す。



図7 -4-9 生活環境評価を外的基準に6要因で数量化を行った場合のカテゴリスコアと偏差グラフ



図7 -4-10 生活環境評価を外的基準に6要因で数量化を行った場合の偏相関係数



表7 -4-4 生活環境評価の6要因による数量化における内部相関

3位までの偏相関係数の大きな要因とその順序は変わっていないが、スコアについては一部若干の変化がみられ る。さらに、相関比の平方根は0.68と減少 し、的中率の減少が予測される。
それを防ぐためには、例えば「周囲の風紀」と「周囲の緑」、「周囲の風紀」と「夜道の明るさ」のように内部相関の強い要因についてそれを小さくする地域を 見いだして、新たに追加調査し、より多くの要因について数量化しなければならない。しかし、本来、個々人の意識反応の背景を一次線形で全て把握することは 不可能であり、各地域社会の育てた文化的背景をも分析に織り込むことは同様に困難であろう。この方法では客観的な一定範囲の要因で、生活環境としての評価 に留まらざるを得ないといえよう。なお、本論文で用いた数量化のための標本の調査期間は11年にも及んでおり、生活環境に対する意識反応の経年変化は否め ない。従って、これまでの調査の経験から得られた内部相関を小さくするような全地域についての同時調査が必要であろう。

4ー2.各要因のカテゴリの客観化の試み
§1で示した数量化の結果は、各要因のカテゴリが「非常に良い」、「非常に悪い」の両極をもつ意識反応であった。この様な意識量に頼っ ていては 客観的立場から、その要因でのカテゴリをどの様に選ぶべきかは決定しにくい。そこで、これら各々の要因における「良い」、「悪い」の程度を外的基準にし て、客観的な説明変数(要因)とそのカテゴリを選んで数量化を試みた。
調査は§1での昭和60年1月9日ー19日の間、兵庫県川西市、大阪府豊能郡での生活環境調査時に、その主たる項目についてその外的基 準に影響すると思われる要因を選び、調査用紙を作成し回答を得た(回収率164/250)。
先ず、冬の日当りについては、図ー11,12と表-5に各々、スコアと偏差グラフ、偏相関係数、内部相関表を示す。なお、日照時間は測定値ではなく意識さ れたものである。この時の相関比の平方根は0.69と大きく、内部相関に0.32と大きな要因があるものの、ここに示した要因で十分な判別が得られよう。
通勤、通学の利便性については、相関比の平方根は0.44であった。図ー13,14に、各々スコアと偏差グラフ、偏相関係数を示す。内部相関は最大 0.17であった。交通手段と共に通勤時間も寄与を持っていることが分かる。



図7-4-11 冬の日当たりの評価を外的基準としたときのカテゴリスコ アと偏差グラフ



図7 -4-12 冬の日当たりの評価を外的基準としたときの偏相関係数



表7 -4-5 冬の日当たりの数量化における内部相関



図7 -4-13 通勤・通学の利便性を外的基準としたときのカテゴリスコアと偏差グラフ



図7 -4-14 通勤・通学の利便性を外的基準としたときの偏相関係数

買物の便利さについては、相関比の平方根が0.34と小さく内部相関も小さくならなかったが、生鮮食料品に 対する反応の偏相関係数が大きかった。通勤、通 学の安全性についても相関比の平方根は0.35と小さく、内部相関も大きく、それぞれの偏相関係数が小さかったため、更に説明変数が必要であろう。勿論偏 相関係数が小さく他と内部相関が大きければ、それは有為な要因とはならない。
この様に、より客観化された要因を選んで数量化したが、相関比の示すごとく全要因において十分な的中率を得るためには、更に、説明変数を追加する必要があ る。なお、一般に、個々人の各種の意識反応が外的基準の場合は、相関比は中々大きくならないのが実状の様である。

§5まとめ
・生活環境における8つの主な環境要因の意識カテゴリについて、外的基準を「良い」、「普通」、「悪い」として数量化した。
・数量化の結果によって総合スコアを求め、外的基準を判別する分割点が得られ、一定の的中率で判別できることが示された。
・これによって環境予測、環境計画において各要因の寄与の程度が数量的に議論できる。その結果、経済的、技術的な実現性への議論が可能となろう。
・この様な立場にたつと、生活環境に大きな影響を及ぼす多くの要因を、それぞれ少しづつ改善することによって、全体のスコアを上げ生活環境の総合評価を上 昇せしめることもできる。
・各環境要因のカテゴリーを客観化することも、ある程度可能であることが示された。
・道路沿いの高騒音レベルの地域の例を取り上げ、都市地域ではそれが大きな環境悪化の源である事を示し、それらを埋設した上、その上部に緑地を持つ共同溝 が地域改善に大きく役立つ事を示した
・より精度を上げるためには、より多くの要因について、内部相関を小さくする異なった性格の種々の地域に対して、経年変化を含まない同時調査を行い、その 結果を基にした数量化が望まれる。

文献
(1)梶:”住民意識よりみた生活環境整備の方法に関する研究”、都市計画、67、p.19ー33、1971 年。
(2)吉川、細見:”都市開発のための生活環境の総合評価に関する基礎的研究”、土木学会論文報告集、 No.204, p.107-119, 1972年8月。
(3)斉藤、久野:「都市環境の快適性の研究」(研究代表者斉藤)文部省「環境科学」特別研究研究報告、p.178-203 (昭和61年2月)。
(4)林、樋口、駒沢 :「情報処理と統計数理」産業図書(昭和45年3月)。
(5)中島,三宅,谷口,桜井:“生活環境に対する騒音環境の影響について-意識調査による要因分析-”、日本 建築学会近畿支部研究報告集、p.93-96, (昭和48年6月)
(6)堀江,桜井 : “環境騒音が生活環境の総合評価に及ぼす影響の定量的検討”、日本建築学会大会学術講演梗概集(関東)、 p621-622,(昭和59年10月)。
(7)堀江,桜井 :“騒音環境が生活環境の総合評価に及ぼす定量的検討”、関西大学工学会誌、8巻2号、p7-12(昭和59 年)。
(8)居内,野口,桜井 :“住宅街の景観評価に関する基礎的研究”、日本建築学会大会学術講演梗概集(近畿)発表予定。
(9)尾島:「東京大改造」、筑摩書房(昭和61年)。
(10) 国土庁 :「国土利用白書」(昭和60年版)。
(11) 堀江,桜井,九門,石丸 :“生活環境の総合評価につ いて”,日本建築学会近畿支部研究報告集,p249-252(昭和60年5月)。


(5) 21世紀・京都の未来

京都市が1998年に「21世紀・京都の未来」と題して、コンペを広く募集した。その機会に、一つの住宅の 持続可能計画から、徐々に村、街、都市へと議論 を広げていくことを考えるよい機会と思い、応募したときの論文である。10人が賞をもらったが、専門委員会の選考対象にはなったようだが、私は残念ながら 選外だった。

 21世紀・京都の未来

目次

序論
(1)持続可能な住まい方について
(1ー1)持続可能なライフスタイル-Kaiwaka村からの報告
(1ー2)1戸(4人家族)あたりに必要な面積
(1ー3)住宅設計の多変量性
(1ー4)低層共同住宅
(1ー5)自然と共生するエネルギー
(2)コミュニティの再構築
(2ー1)社会調査などを通じた議論の中でのコンセンサス
(2ー2)Infra structureについて
(2ー3)Multimedia(Internetなど)の有機的利用
(2ー4)ReuseやRecycleの社会システムの確立
(2ー5)教育について
(3)京都市の計画への提言
持続可能なライフスタイルの確立
社会奉仕のシステム
文化と芸術
古い町並みの保存について
配布資料について
産業
大学
商業
おわりに

序論
この素晴らしい地球を守り、人間として幸せに生きてゆくためには、直ちに現在の物質文明を放棄し、質素な生活に戻らねばならない。そして、太陽や宇宙から の恩恵の下、持続可能であり、自然共生の確立できるライフスタイルに改めてゆかねばならない。ここでは、私の研究室を中心に、7年近くかけて作られた ニュージーランド国(以下NZ)Kaiwaka村での”自然共生を目指す”実験住宅で得られた結果を基に、それ が可能である事を 示し、その延長線上に新しい都市をとらまえ、それへの提案を試みようとするものである。これに基づくライフスタイルの大きな転換は、一見、現代人にとって 少なからず苦痛を強いられる提言に映るであろうが、それによって得られる他人や社会からの制約や拘束の緩和と、自然環境豊かな場の獲得は、数量で表せない ものがあり、そこで初めて個人が確立され、人間らしい生き方への回帰を、確実なものにできることを述べようとするものである。
さらに、この論文の主旨であるように、大きな宇宙の下、人間それぞれが個人として存在を認められる場は、決して強いヒエラルキーは必要でなく、また、構成 してはならない。最低のローヒエラルキーの下(=ボランティアーを基盤にした社会サービス組織)、本来、人間各自が自由に人生を求めるべき場を提供するも のでなければならない。
従って、基本的には、今回のように京都市そのものに特徴を持たせるべきものでもない。また、京都市独自で完結できるものでもないから、具体的な提案は、一 定レベルにとどめ、ことに具体的な建物の単体設計までの提言には及ばない。さらに云えば、合理化されたInfra structureは、他の地域との関連と結合が必要であるし、また、単体の設計は個人に属すものであり、押しつけるものではないと云うことでもある。し かし、ここで京都市をある程度イメージしながら、持続可能性を議論して行く過程は、今後の人類の大きな再出発点になりうると考える。
京都は、文化都市、歴史都市といわれるが、現状では地域的にはごく一部において言えることで、他の大きな部分は、何も取り上げるほど意味のある特徴を持っ た場所ではない。むしろ、どん欲な経済行為の犠牲になって混乱の場を作っている点で、他の都市と何等変わるところはない。京都市は、すでに混沌の世界にあ るという認識が必要である。日本で、いや世界で共通して起こっているこの現象は、造る側が安易に住まいや建物を考え、化石エネルギーに頼る手段によって利 益を追い求めてきたことによっている。この延長線上には破壊が待つのみである。ここで大きく過去にかえり、持続可能な生き方を求める方向へカジを取り直さ ねばならない。自然共生のできる空間が得られて初めて、この町が造ってきた文化や歴史が甦ってくることになろう。そしてそれによって人間の生き方を思考 し、追い求めて行く空間が得られることになろう。

(1)持続可能な住まい方について
(1ー1)持続可能なライフスタイル-Kaiwaka村からの報告
序論でも述べたように、この数年間、NZ、Kaiwaka村に実験住宅(図-1参照)を建て種々の実験を重ねてきた。詳細は別添の引用文献1)、2)、 3)、4)やホームページにゆずるとして、最初に掲げた実行項目の4項にわたって概略説明する。

住宅の写真丘の上鳥瞰図
図7-5-1 Kaiwaka村の実験住宅とプロジェクトの概略(省 略、本文参照)

(i)エネルギーは自然から自分で集めて獲得し化石エネルギーを使わない
料理用燃料は、セプティックタンクによるバイオガス(糞尿は全てバイオガスに変わり、一人1カ月の糞尿から12日分の燃料がとれる)、太陽エネルギーを 一ヶ所に集める方法(ソーラーオーブンとソーラークッカー5))、自分が育てた雑木(木は燃やすと育つ間に固定した炭酸ガスを放出するという。したがっ て、それを燃やしても大気中の炭酸ガスの比率を変えない。実験住宅では、光合成の盛んなポプラ、アカシア、柳などを育ている。これらは一定の太さ、 15~20cmになると地上1~1.5mで切ってやる。するとそこから新しい枝が勢いよく育ち始める。それを冬の燃料にすることをcoppiceと呼んで いる)や草の燃料で賄える。
電力は、風車発電で、通信(Internet)、冷蔵庫、電灯等に優先順位を与える。配置については、各戸用にするにしろ共同の大型を設置するにせよ、風 の強い一ヶ所に集めることが望ましい。実験住宅では、500watt2台、300watt1台を設置し電灯、小さな冷蔵庫が使え、風の強いときは、洗濯 機、掃除機も使える。
シャワーや皿洗いの温水は、地中熱を浮力による自然換気で、室内温度調節に利用するため、ソラールームを設けているが、その時の蓄熱用の水槽の水を利用す る。まだ冬の晴天日で38度程度なので、暖房用の暖炉のダクトにだかせるなどして温度を上げる方法を検討しているが、可能性は十分ある。
(ii)地球に優しく帰って行くその地方で育つ材料で建てる
茅葺き;屋根を葺く素材や形のデザインは景観上大きな比重を持つ。土をのせた屋根に植物を植える方法、茅葺き、桧皮葺き、板葺き等種々考えられる。実験住 宅では、2x4構造なので合板の屋根の上に、垂木で10cmの空気層を作り、bulrushと呼ばれるい草を用いて葺いた(図-1参照)が、残念ながら上 段で腐敗が進んでいる。どの様な材料がよいかは、風土主義的にも景観的にも考察しなければならない。米を育てるのでその藁も使ってみたい。
土壁;日本古来の壁のみならず、日干し煉瓦、ラムドアースなど昔や現代の廉価な工法を見直している。これらの材料で、十分な断熱性、高熱容量、がえられ る。現場では、2x4構造で出来る空気層には、対流を防ぐための種々の材料-草、プラスチックを丸めたもの、新聞紙を丸めたもの、羊毛、グラスウール等- を入れ、両側から地下室を掘ったときの粘土を用いて、2重の土壁にした。試算では、草を入れても新建築材料といわれる材料による工法と等価な熱貫流率が得 られている。各部分の熱流は後に測定して、充填材料の検討に当てる。
雨水も集めて生活用水に当てる。日光を遮断した大きなタンク内にためれば腐らずに使える。
コンクリート構造の否定;現在の土木工事、建築工事はたやすい工法、高収入の得やすい方法として、コンクリートを用いる工法が支配している。これは人間の 工学に対する敗北であり、生態系を壊す大きな原因の一つともなっている。また、鉄筋コンクリート造は、建てる前にも建てるときにも、すでに大きなエネル ギーを使い、出来た後は、熱損失が大きく、高層ビルは多量のエネルギーを要し、結局、温室効果に大きく寄与していることになる。化石エネルギーは、全世界 的に多量に使われだしており、その枯渇は予想外に早くやってこよう。その様な時点では、これらの建物は使用されなくなり廃虚と化していこう。自然共生の立 場から強くこの手法を再検討せねばならない。
(iii)生活から排泄される汚染物を外に出す前に各家庭で浄化する
糞尿は全てバイオガス化しているから、後は、温室内に池を設け、それを燃焼させた後の炭酸ガス(図ー2参照)と、住宅内からの雑排水を養分にし、そこの植 物の光合成に酸素への変換を委ねる。この時、住宅内での洗剤の選択は十分な配慮がいる。3、4日で分解可能な植物性の表面活性剤の洗剤が英国やNZでは普 及している。NZの現場では、温室内の2.5m四方の池にジグザグした水路を作り草を植えているが、ある日の測定データでは、住宅からの雑排水のBOD値 が、池の入口で170ppmだったのが21ppmまで落ちた。これは大きな都市の浄水場が放流するときの値であり、さらに浄化池(現場の温室にはさらに2 個の池を作っているが、現在はまだ積極的に使っていない)を設けてやれば、この値はさらに小さくなり、その水の再利用も可能である。ここで強調しておきた いのは、公害や汚れは、その源できれいにするという鉄則である。いったん混ざってしまうと、どの様に処理をしたらよいのかが分からなくなるからだ。
そして、炭酸ガスは(長年徐々に蓄えられた化石エネルギーの燃焼によるものは問題だが)光合成をかり植物を育て、それを食物や日常生活へ利用できるものに 変換でき、その過程が一つのサイクルを閉じられることを確認しなければならない。それで初めて持続可能の系は閉じられる。
(iv)有機農法による自給自足6)、7)
自然に任せた有効な有機農法が色々と提唱されており、自分の食料を得るという点において、余り労力を要さないことを認識する必要がある。ライフスタイルを 根底から改めると言うものの、自由時間がゆっくりととれ、自己の生長を求める時間が十分に得られる。その手法の2、3の例をあげると、作りたい植物の種子 をその場所の土に混ぜ粘土団子を作り、だだ、それをまいてやる。そこの土やそこの気候にあったものが、自然の支えを受けて生えてくるというわけだ。よく知 られている方法に、空気中の窒素を固定することを利用したクローバーを介しての米麦の輪作、あぜ道への大豆がある。また、果物の木の近くにコンフリーを添 わせたり(後者の深い根が地中からの微量元素を吸い上げ、枯れた葉から前者に養分を与える)、さらに面白いのは、果物の木と鶏(強いくちばしや爪で地面を かき、根に酸素を供給し、果実をねらう虫類を根元で上手に食べてくれる。そして最後には肥料を残してくれる)を一緒に育てるという様に、お互いが協力し合 う関係を探してやるわけである。
ここで明らかにしておくべきは、農業によって生活全体を支えようとしているのではないことである。そして、単一の種類を多量に耕作するのではなく、多種類 をそこの人間に必要なだけ育てようということである。このような耕作は、土地を枯らすことなく、いつまでも種々の植物の混合植えや輪作で合理的に維持が出 来る。また特別な害虫を集めにくいから殺虫剤も不用になる。
以上の様な場が整っても、実はこれまでの物質的な生き方が求めてきた発想と同等であり、その域を越えない。我々の生活には、喜びや楽しみが必要であり、心 を豊かにし本来

ソ ラークッカー  ソラーオーブン   温室と排気ガスのダ クト
水田       手作りの音楽会
図7-5-2 Kaiwaka村の 実験住宅の様子(省略、本文参照)

の生き方を考えてゆかねばならない。自然の中にいるとその様な環境が容易に得られ る例として、現場に作った野外劇場について紹介して おきたい。我々は現場 の丘の斜面に、ギリシャの野外劇場の斜度26.3度-舞台からの直接音がはっきりと大きく聞こえる斜度8)-を参照して、手作りで野外劇場を作った。そし て、この緑に囲まれた空間で、ピアノ演奏やコーラスを楽しく聴いた。今度は星空を眺めて演奏会を開きたいと思っている。
この様にして、太陽エネルギーが唯一の頼れるエネルギーであることを考え、それらを上手に使って行くと、これらが相まって持続可能の系が構成される。

(1ー2)1戸(4人家族)あたりに必要な面積
人口問題は今後とも避けて通れない重要な問題である。一体どれぐらいの面積でどの様に生活できるのかを検討せねばならない。
持続可能型の1戸(4人家族)あたりには、日本やNZのような温暖なところでは、住宅に100m2、農園に500m2、菜園に100m2、果樹、雑木用地 に300m2、身障者、老人等働けない人のためや社会サービスをする人々、家族の医療サービスへの分として500m2(気候不順な場合のストックについて も検討が必要であるが、ひとまずこの数字にした)等で、約1,600m2(40mx40m)必要と見積もっている。すなわち、1,000m2辺り日本で は、米540kg、麦300kgとれる6)という数字をもとにしている。なお、家畜を育てる場合は、草を食ませる広大な面積が必要となる。同じ量のタンパ ク質を取るのに、植物性のは動物で得るのに比べて1/10のエネルギーですむといわれる。ここでは、動物性タンパク質としては鶏と卵、魚程度を考えてい る。

(1ー3)住宅設計の多変量性
実際に住宅を建てるとなると、色々な別の要素も関わってくる。美しいー便利ー安全ー安いー自然との共生等々。図-3のようなフローチャートを作って、設計 者支援用のコンピュータープログラムも作っている。

図7-5-3 自然共生住宅設計支援用コンピュータープログラムのフロー チャート(省略、本文参照)

ここで強調しておきたい点は、当研究室で作った室内環境の総合評価尺度9)を用いて、騒音環境、照明環境、 温熱環境を総合的に計算して評価する過程、すな わち、建築環境計画(さらに後で説明する)と、自然共生性の評価の2つの軸である。前者にたいするプログラムはほぼ出来ているが、後者は、種々の要素を考 えているところで、どの様に尺度を構成してゆくべきかは、まだ検討中である。例えば、次のような項目が考えられる。建物を建てる場合の材料を作るのに用い られたエネルギー、建物を建てる過程でのエネルギー、各部材の耐用年数とエネルギー効率、建物の補修に必要なエネルギー、そこでの住まい方とエネルギー、 その材料の毒性、地球へ帰るときの優しさ、デザインの永続性、等など。それらがどの様に地球に負荷をかけているのかは、しっかりと評価しなければならな い。

(1ー4)低層共同住宅
1戸が小さな区分-例えば、現在の土地の最小区分100m2-を持ち寄り、4層の集合住宅にすると、その3/4でまわりに野菜や果物、木や草花等を植える 緑地が得られる。明確にしておくべきは、狭く高く建てるためではない。エレベーターによるエネルギー消費を無く

図7-5-4 自然と共生する低層共同住宅(省略、 本文参照)

すため、4層以上にしてはならない。屋上も緑化することで、収容する人達の野菜や果物は年間を通じて十分充 足できる。コンセプトを図ー4に示す。さらに、 コンクリート造を適用する場合、外側断熱を心がけ、施工時において、仕上げを兼ねた型枠を工夫すべきであろう。
最近訪ねたパリでは、集合住宅での生活に飽きたらず郊外へ移住する人達も出てきたと聞く。広い公園はあっても、アパートのまわりに個人が享受できる菜園や 緑地がないからだと思う。現状のほとんどの都市には、人々の楽しめる空間が無いことが大きな欠点である。
老人人口の増加による若者への負担の増加が議論されている。その老人達の現状は、高層のコンクリートの箱の中に住んで、年金を持って買い物に出かけ食事を し、散歩をしたりテレビを見て毎日が終わる、と一般的には表現できよう。こんな環境では、さらなる楽しい生きがいを見いだせ、といっても無理であろう。彼 ら自身は、すでに日本国株式会社で消耗しており、気力をなくしている。そこで、少しでもよいから緑地を与えて、少なくとも食料の一部を生産し、自然と接す る空間を与えねばならない。定年退職が、狭い領域での仕事を一筋にやってきて狭くなった心を広げ、さらなる勉強をする機会が得られた、と考えられる様にし なければならない。そして、新しい精神活動の向上を目指す場を作って行かねばならない。歳を取るということは、若者がまだ得られていない知識を持ってい て、さらに磨くことが大切なのであって、止まってしまっては何にもならない。まだ体力もあるはずだから、協力しあえば桃源郷を作って行くことも可能だ。老 人パワーを示そうではないか。

(1ー5)自然と共生するエネルギー
太陽エネルギーに関する環境へ負荷を与えないものをあげれば、図ー5のごとくとなろう。これらを具体的なその場に見つけて、持続可能な系を練り上げ生活の 場を構築すべきである。



図7 -5-5 自然と共生するエネルギー

(2)コミュニティの再構築
(2ー1)社会調査等を通じた議論の中でコンセンサス
それぞれの都市は、長い歴史を持っている。地域毎あるいはそれらを結ぶような形で、その場所での形態を維持してきた。しかし、徐々にあるいは急激に、経済 力の投入でそれらが壊され、混乱を呈している。この論文で強調するところは、太陽エネルギーに依存した持続可能なライフスタイルの確立にあり、人間性の回 復にある。その意味では、経済力の支えであるどん欲さや傲慢さの否定であるから、都市作りには、それを構成する住民の一定レベル以上のコンセンサスが必要 であり、現在の都市の持つ不必要と思える多様性を、合理化したものに変えて行く立場も確認せねばならない。その時、後で触れる Multimediaの活用は不可欠でそれを併用することで、健全な都市構造は十分維持できよう。
従って、大切なのは地域計画において、住民の意見を十分聞きくために、丁寧で綿密な社会調査が必要なことである。それは個々人に環境問題の大切さを深く考 えてもらい、自分の住まい環境を自分で計画デザインするという、自己確立を目指した一過程として、責任を持つということである。自分が個人として創造性の ある生活環境を確立するというその概念を作ることが根底になければならない。これが町の将来計画の前提になる。でなければ住宅のデザイン-人間に与えられ た芸術に結びつく空間創造の機会である-も洗練されない。一方で、たやすさや無意味な利便性を求めたり、人気投票の類ではないことをハッキリ区別しておか ねばならない。
筆者は世界各地をまわったが、日本の住宅事情は、広さの点からもデザインの面からも、世界の中でも最も劣悪である。これは経済に誘導された人口の都市集中 がもたらしたものと断定できるし、各自の住宅設計を業者まかせにし、本人が主体的に参加していないことから-ましてや地球環境を考えるという配慮はかけら もない-、住宅のデザインが少しも洗練されないと言う結果になっているのであろう。すなわち、個人からの強い要求も出しにくい社会環境& rdquo;まわ りの人がそうだから”に慣れてしまって、そうなるのであろう。
この社会調査においては、全ての住民のコンセンサスの得られる単純で、しかし、ハッキリとした原則にもとづいた原理原則-持続可能な住まいかた-を抽出し なければならない。そして、具体的な構成は、コミュニティとしてコンセンサスを得ながら、まとめあげてゆくべきである。その過程で注意すべきことは、現在 の日本は、かつての美徳であった和の精神が、単に一様化へと変身し、戦後導入されたアメリカ民主主義と相まって、原則的な議論をしっかりしないで、多数決 を取る形式へと変貌し、根回しのみでことを決するようになってしまっていることだ。楽な方法だが、間違いだ。これでは創造的な結論は決して得られないし進 歩もない。
社会サービスに携わる人達等が、一戸の家を構えるとき、一家で週末などを利用して管理できるのは100坪(324m2)程度だろう。英国の田園都市でも 375m2辺りを基準にしていたようだ。そして、一旦これを決めると、市当局は頑強に守るべきである。Stockholm市での市街地開発は、家の色調、 敷地の大きさ、そこにある木1本にいたるまでの指示、コミュニティの公共施設など、徹底して指導し、住民もそれに敬意を示している。勿論、市が権威を維持 するためには、たゆまない研究への努力が必要であるのは言を待たない。また、その様な信頼関係が実は必要なのだろう。
この項で、最後に付言しておきたいことは、日本の国土は決してアメリカのように広くはない。しかし、実際に住居に供されている面積は、4%以下であるとい うことである。まだ緑豊かな国であるわけだ。さあ、それをどううまく持続可能型に利用してゆくかは、今後を担う大きな国民的課題であろう。

(2ー2)Infra structureについて
各種生活環境要因に対する満足度を背景に、総合的な生活環境を予測する方法として、数量化理論II類を用いた結果を報告したことがある10)。すなわち、 安全性、快適性、利便性、保健性から抽出した23の生活環境要因について、各人の満足度を聞くと共に、地域環境の総合評価(’よい ’、’普通’、 ’悪い’)を聞き、その結果から数量化をし、各要因への重みを求めた。ただし、この分析法では、要因間の内部相 関を小さくして用 いなければならないという前提があり、その条件を満たすために、要因を削って行くと8要因に減ってしまった。調査をした各地がスプロール化し、例えば、騒 音が大きいところでは緑が少ないという様に多くが関連してしまったので、一方のみの要因を取ったからだ。しかし、その意味では8項目と云ってもそれに相関 した他の要因も、ある程度評価したことにもなる。また、毎年の学生への演習問題を通じて、この予測法の計算で得られた結果と、彼らの総合評価の実感を比べ させると、その論文で推定された的中率68%を何時も上回っていた。まずまずの予測法と言えよう。偏相関係数(各要因の持つ生活環境評価への影響の大き さ)の大きさは、周囲の風紀、冬の日当たり、騒音、周囲の緑、、、の順であり、この順に対策を講じて行くと改善が合理的に進むことを示す。
高速道路ぎわの高騒音レベルに暴露されている地域で、具体的に行ったアンケート調査結果に対して、仮にその高騒音をなくし緑地を増やすとすると、この数量 化された予測法の上では、その地域の総合評価は、“悪い”という現状から1ランク上の“普 通”、それも “よい”という評価近くに生活環境評価が上昇した。すなわち、現存の騒音源を地下に埋めて減じ、その上に緑地を 設けるという作業 で、その他のまわりの生活環境要因は適当に高いレベルで備わっているから、総合的には相当よくなると言うことである。そこで、交通機関に他の機能も持たせ て、共同溝を提案したわけである。それには、電気、ガスなどのエネルギー伝送をはじめ、電話回線、光ファイバーなどの情報通信回線、上水道、(下水道、ゴ ミの輸送-等も必要かも知れないが、これらは全て各自が源できれいにすべきであろう。そこで一番よく原因が分かっているのだから、最適な手法も見いだせ易 いし、混ぜてしまうと取り返しがつかなくなる)等を取り込むことが出来る。確かに高価な投資であるが、阪神大震災でも地下構造が比較的地震に強かったこと を考えても、100年のオーダーでのInfraであり、将来へのよいストックになろう。景観上も電気、電話回線等が街中を走り、空間にシミをつけるような 不快さを取り除くことになる。
これを実行するには、丁寧な地質調査、地理調査などをふまえて、十分な準備が必要で、将来へのストックとなり得るものでなければならない。先に触れた項目 等を含むものを、まわりの地域とも一緒になって検討しなければならない。隣接地域との意見も一致せねばならないし、国全体としても考えねばならない。した がって、その位置などについても丁寧な検討が必要である。

(2ー3)Multimedia(Internetなど)の有機的利用
都市構造の不必要な多様性から、単純化、合理化へ向かうのにこれは必要不可欠の手段である。在宅勤務を制度としても考察せねばならない。その一方で、誰も がアクセスできる情報交換の広場、検索を容易にするサービス、日常生活をサポートするコンピュータープログラム集、広い範囲に正しい情報を与えるデータ ベース、医療相談等を張り巡らし、多くの人達に役立つ場を作り、またそれらの人がそのシステムをより高度で豊かなものへ作ってゆく環境も構築しなければな らない。流通機構、交通機関、等も含めて大きく変貌して行こう。料理や菓子の作り方、農業の仕方、図書館にある読みたい本の内容、毎日の情報等が手近に 入ってくれれば、持続可能型への大きな支援となる。
この分野でのこれらの手法や具体性は現在かなり高まってきている。高度な知識がないと利用できないようでは真の開放にならないし、人工衛星から電波を張り 巡らした場合の環境への影響ーその意味では光ファイバーの方がよいと思われるーも検討されねばならない。この領域の盛り上がっているエネルギーに期待した い。

(2ー4)Reuseやrecycleの社会システムの確立
先にも述べた様に、生ゴミや糞尿はセプティックタンクを通して、エネルギー源になり、各家庭で処理が出来る。紙類、金属類、衣類等も廃品回収のシステムが 出来ている(時ともない騒音は改善されねばならないが)。さらに、木や、石材などの土木建築材料を始め、プラスチックの分別回収等を含めて、その再利用を 目指して、コミュニティが管理運用してゆかねばならないだろう。それらの機関をどの様に分散配置して行くかも検討せねばならない。
ここで大きく問題となるプラスチックについては、分別回収することで、その再利用がうまく行くことを示し11)、製造業者にも製造販売するプラスチックに 分類を与えるなどの分別回収への協力を依頼せねばならない。今こそ、先駆的な役割を認識した強力な行動が必要であろう。分類すれば新しい資源、混ぜればた だのゴミである。
地球への負荷という点において、工業製品の自然共生性を評価する尺度を確立し、その様子を公開させることも必要となろう。すでに市場に出回っている遺伝子 操作された農作物についても同等である。

(2ー5)教育について
自然の中で教育は行われるべきだし、環境の大切さを教えることが非常に大切であるのは言うまでもない。しかし、わが国の教育の現状を考えると、決して正常 ではなく、それへの期待は寄せられない。受験勉強でゆきつく大学は、その後の社会での強いヒエラルキーを構成する手段になっており、国全体がそれで動いて いる。その上、大学での教育研究の哲学が貧困であるから、独創性のある空間としての期待は出来ない。この様な中では個の創造性は育ち難く、若者達はマスと して流されて行くに過ぎない。
歩んできた人生を振り返り、何が心温まる思い出として残るかを振り返ると、終戦直後でものがなく、飢えをしのぐ毎日ではあったが、子供時代の自然の中で遊 んだ-魚取り、昆虫採集、きれいな海での水泳等など-こと、祖父を手伝って植木の手入れや野菜などを育てたこと等が思い浮かぶ。花を育てたり、農作物を育 てたりする中に学校はあるべきだし、そのなかで初めて環境の大切さが教育できる。そして共同作業する中で、他人を尊重する態度を会得して行く。この時、音 楽、芸術、文学、科学などの創造の世界への場も楽しく与えねばならない。一定の基礎が出来れば、親元へ帰ってもMultimediaで知識へはアクセスで きるし、さらにやりたい方向へ進んでも、自分の食糧を確保する手段は知っていることになる。

(3)京都市の計画への提言
持続可能なライフスタイルの確立
配布された資料によれば、京都市の場合、人口密度は、1平方キロ当たり平均2,300人程度であり、我々の先の計算でゆけば、その面積に 2,500人は収容できるので、持続可能な住まい方は面積的には十分可能だ。しかし、周辺の豊かな自然環境を壊すわけには行かないので、低層の集合住宅は ぜひ必要である。既存の20%を占める住宅が107m2全部持ち寄り4層にし、3/4を緑地にしながら収容すると住宅が占拠する面積は5%程度となる。農 地10%、61km2を持続可能型に置き換えると、152,500人、全人口の約10%収容できる。彼らは同じ人口分の穀類を供給できるはずだから、都合 20%が現状を変えず自給自足できる。後の80%の住人の穀類は、60%山林の一部を用いるか他の地域から取り込まねばならない。
農業用水の潅漑はこれまでのすばらしいInfraとしてのストックだ。それを上手に使い、不足分については丁寧な計画-河川からの引水、過疎域でのため池 等-を立てねばならない。各家での雨水の利用も必要だ。水は何といっても大きな要素だ。
周辺部の現在の農業地帯では、社会奉仕、商業、医療等に関与するこれまでの都市型生活を離れられない住人へ、ことに穀類を供給することも可能であろう。農 法に不慣れなものは、現存する農家から教えてもらえるよい空間も得られる。ここでの教育、その他、社会システムへの関連を議論するにはよいケーススタディ となろう。しかし、これらを実現するには、当初それぞれには一定の金が必要であり、特に、セプテイックタンク、ソーラーオーブン、ソーラークッカーへの助 成金、一方では、それらの改善、大量生産による効率化など、市当局が研究し、生産へも関与して行かねばならない。そしてこれらの移行が一定レベルで行える と、その後の行政機構は小規模になり相当合理化されて行こう。
共同溝については先にもふれたように、京都市の場合、少なくとも東西、南北に1本ずつは必要であろう。また、幹線道路とのアクセスなどをどの様にするか京 都のみで決定できない点もあり、さらなる考察が必要である。
公害の処理において、源でおさえるという方法は鉄則である。また、結果的にたやすい。その例として、我々がひと昔前、西陣、高野地区の郷土産業を守るため の騒音条例に向けての騒音調査に関与した時、高野川への染料排出規制ができ、その結果、加茂川を甦らせているようだ。源で抑えるべきというよい例だろう。 騒音条例が作られた様子はないが、これを解決するにも騒音源をコアーの中に封じ込め、低層集合住宅化によって、緑地が得られると共に距離減衰が得られ、空 間のより有効な利用ができる。
環境汚染の問題からいっても、河川の管理をしっかりしなければならない。多くの大都市を下流にひかえているので、直ちに糞尿の類の投入を止め、それらはセ プティックタンクを介してエネルギー源とすべきである。各戸でその投入を止め、エネルギー利用とその後の炭酸ガスを浄化すれば、最も理想的な公害対策にな る。Kaiwakaの温室での実験では、い草やかやつり草よりも葦がより汚い家庭用雑排水を好み、しっかりと生長している。のり面の固定のためこれら植物 の根による、少なくとも、表土の流失を押さえる昔ながらの方法に帰るべきである。川の自浄作用は貴重なものである。今後、清浄な水の確保は、エネルギー問 題よりも深刻になると言われている。
人の多く集まる公共的な場所、例えば鉄道やバスの駅でも糞尿を有効に使わねばならない。すなわちバイオガスとするか肥料として利用するか。前者の方が地球 への負荷は少ない。そしてそのガスをエネルギー源として用い、例えば暖房や発電に用い、その排ガスである炭酸ガスは、その上に作る温室内に供給し、植物の 光合成で浄化する。その植物は食料やさらにバイオガスの燃料にする。そこでやっと持続可能の系を閉じることになる。家畜を大量に飼っているところでは、同 様にしてこれまでたれ流していた排泄物を処理でき、そのエネルギーでの発電も可能であり、その様な指導をすべきであろう。
ゴミは基本的には各自が処理をすべきで、生ゴミは自分のエネルギー源にして外へ出さない。金属類、ガラス類、紙類、衣類等はすでに廃品回収業者のシステム がある。プラスチック類のみは分別収集せねばならない。それらを種類分けすれば必ず再利用できる。分類すれば新しい資源、混ぜればただのゴミである。産業 廃棄物は何時も中身を監視し、原因物質をさかのぼって追跡でき、そして特定できるシステムがいる。勿論、その責任は生産者に帰属する。いづれにしても、先 駆的な役割を認識した市としての強力な行動が必要であり、模範例を確立するという決意が必要であろう。特に、プラスチックの回収と再利用に先鞭をつけるこ とが必要である。
市の共同用地や鉄道軌道沿いの空き地には、Coppice用の木を植えるべきであろう。そして、非常時に備えたり、弱者に供給すべきであろう。地球に優し い材料を使い始めると、工業製品のように何時でも補給できる性質のものではないから、コミュニティとして茅やコピス等の共同生産が必要になる。共同で作業 を分担したり、それらを分け合う過程からは学ぶものは多い。これらには予測できない季節変動に対する対策も大切で、十分な計画と配慮が必要である。
風車発電および水力発電による電気自動車は意味がある。そして、それも各人が1台というのではなく、うまく地域で共同利用すべきであろう。一定量の石油を 使って、現在の車を運転する効率と、それで発電し電気自動車を運転するのとでは、後者の方が効率がよいという。そして、相当実用化されている。それがその 地域のための風車発電や既存の水力発電の電力内で動かせるような形に持ってゆくべきであろう。京都について云えば、山間あるいは大きな河川での地形を変え ないそして景観を汚さない小規模な水車発電は、各所で得られ十分利用価値があろう。また風の強いところでの風車発電もよい。その意味ではビル風も利用でき よう。
社会奉仕のシステム
阪神大震災での、また、日本海での石油流出におけるボランティア活動は特筆に値する。ここKaiwaka村では、消防活動は勿論、交通事故など突発的な事 故にたいしてサイレンで知らせ、ボランティアのメンバーが駆けつける。子供が見つからなかったときも、すでに確立された電話網があり、面的にチェック仕 合って探すことができる。コンクリートの箱の中に住み、化石エネルギーを使い放題の生活からは、この様な助け合いの態度は生まれないが、基本的に人間社会 に必要なことだ。教育もこの点を強調せねばならない。
文化と芸術
治水に始まり内陸型の厳しい自然環境を持つ京都の町は、文化、芸術、建築様式、等様々な面で独得のものを生み出してきた。また、偉大な自然の仕組みに対す る畏敬の念から種々の季節の行事を作ってきた。これは生活の苦しさを癒す人々の知恵でもあったのだが、それを創造の領域にまで高めてきた先人達の努力は、 持続可能なライフスタイルの中で初めて、それを楽しみさらに創ってゆく場が得られると受止めねばならない。即ち自然環境に負荷をかけないという生き方が、 初めてそれを享受できるし、それを発展させてゆく連続的な接点を持ち得ると考える。鉄筋コンクリートの空間では連続した空間にはならないということだ。
祇園祭、葵祭、時代祭など、庶民が一緒になって祝う文化は残さねばならない。月々の変化、四季の移り変わり、それへの感謝や祈りを忘れては、人間は生きて ゆけない。自然とのふれあいに基づく慣習、祭などは、やはり振り返り、楽しいものとしてしっかり守ってゆくべきだ。
ここで大いに学びたいのは、京都近郊の寺の修行者の山ごもりにおける食生活とその考え方ではなかろうか。その方面の知識は皆無なので発言は差し控えたい が、一般人にも解るように、大いに普及させて欲しいとお願いしたい。
風土主義的技法(Vernacular)を発展的に取り入れる必要がある。これらを忠実に、そしてそこでじっくり考えられ、さらには手に取って体験できる ような空間の建設-明日への歴史館とでも言おうか-が必要となる。同様に、過去の文化や芸術の保護と発展、新しい文化や芸術を育成する空間も必要で、それ に関連した人々の集まる場所を積極的に創ってゆかねばならない。
古い町並みの保存について
コンクリート製の建物がはびこる中で、失われつつある古い町並みを残したいという考え、態度は分かる。そこにはそこはかとなく漂う、土を、木を、自然を、 感じさせる風土主義的に培われた、また、職人の技と努力を傾注した雰囲気があるからであろう。しかし、歴史は温故知新と言われるように、その理解において そこから学ぶもの、また、発展させて行く方向性がなければ意味がない。その点で京都の長屋風の住宅群は、木質、土壁など自然に近いよい雰囲気を持つ点で、 大いに意味があるが、住環境の点で学ぶべきものはないようだ。
この種の住宅は、道路側と光庭側の温度差による長い廊下を介しての通風をねらった平面配置にあるといわれる。中庭側ではまわりの塀で日射遮蔽され、木々や 草花における水分蒸発の潜熱による気温の低下をもたらす。そして道路側が日射により午前中から熱せられ、そこの空気が温もりだす。直達日射の最も強い午後 から徐々に道路側へ気流がながれる。その通り道である通路は、日射遮断の上、土壁に熱容量を持たせ、涼しい空気がそれに並ぶ部屋に供給されると、一応の解 釈は出来る。しかし、現在どれだけの人々が、ヒートアイランドとなった所で、その程度の理屈の恩恵を感謝しているであろうか。現実は、人工的な手段を使わ ない限り、夏はそれほど快適でもなく、冬の寒さは厳しいようだ。
室内環境を総合的に評価することを求めて、人工気候室に多くの被験者を入れて実験をし、次のような結果を得た。
異なる物理環境-熱環境、騒音環境、光環境など-が同時に共存する室内環境において、どの様にその空間を設計すべきかは、個々の要因について議論すべきと 共に、総合評価として物差しがなければならない。そこで、人工気候室を作り、一度に被験者を4人づつ、温度、照明、騒音レベルの種々の組み合わせを作って 入れ、簡単な作業(1位の数字の加算-クレペリン試験と呼ばれる)をさせた。そして、その時の組み合わせでの作業に対する室の不快性(普通-やや不快-不 快)を聞いた。これを3年間、500人以上の被験者に対して行った。やはり数量化Ⅱ類を用いて、各要因がどの様な重みを持って総合評価しているかを求めた 9)。このように共通尺度が求められると、室内環境の改善には、どの要因にこだわることなく、スコアを上げさえすればよいことになる。すなわち、技術的な 難易度、経済性、空間の表現などを、それらについて同列で検討することができる。
その結果によれば、3つの住環境要因の中で、温熱環境が、ことに夏の場合、傑出して室内環境を支配するということが示された。すなわち、少しくらい騒音が 入ってもよいから、窓を開けて換気をし、温熱感を下げてくれという日常的な経験が数量的に示された。
この結果を考えると、京都市のように、夏冬共に厳しいという気候を持つ都市、ヒートアイランドと化した大都市では、地中熱の平均温度を利用するクール チューブの利用が適していよう。共同溝とのかねあいを考えるのも一つの考えだ。冬、冷たい外気に暴露されない様に、気密化と軽量な2重の壁の仕切で断熱性 を加え、太陽エネルギーを取り込むことで、住環境の改善は計れる。
最近、スイスの町並み保存を見たが、ファサードをそのままにし、かって馬を住まわせた空間までも取り込み、内部を近代化し、ふんだんにエネルギーを使うと いうエネルギーの垂れ流しをしている。これでは意味をなさない。
御所を中心にした平安時代の都市計画については、再度かえりみて一定の形で残しておくべきかも知れない。その配置計画は、古くからの中国の影響を受けて日 本化された場として理解すべきだし、風水の概念が読み取れるかも知れない。持続可能な系を持ち込むとき、大きな意味のありそうな地域計画として吟味してゆ くべきであろう。
袋路は一見コミュニティを持っているようだが、自然環境の無い場所で健全な人間関係が育つわけがない。そして論外なことは、それらの地域でも生活レベルま で昔のままを強いてはならない。セプティックタンクによる燃料の収集、直達日射の利用、寒く風の強いときの不利を有利に変える意味での風車発電による暖 房、不足燃料の共同利用のCoppiceからの供給、など自然共生を基盤にした改善手法を推賞あるいは供与し、他の環境と同等な生活環境を保証すべきであ ろう。最後には、自然共生型の住まいでなければならない。
これらの改善無しで建築様式として保存するのなら、残す理由を徹底的に議論し何処か一定の場所にそれらを集め、博物館にすべきだ。そして、昔からの知恵を 研究する空間としても利用されねばならない。さらに過去の職人による技法も集め、入場者にも手に取ってその意味を体験できるような場にすべきであろう。さ らに、大きな資本力により消滅しつつある昔ながらの技術や職人の保護と育成も大切である。ことに建築における手法は、風土主義的な観点から、丁寧な観察、 分析、新しい手法への発展など大切に検討されねばならない。
配布された資料について
産業;資料によると、産業は伸び悩んでいるという。それは都合がよいことだ。やみくもの工場や大学の誘致による税金からの増収、という短絡的な市政とは決 別すべきである。太くなり過ぎた市政の構造をうんと縮小すべきである。市職員も血税を使って意味のある役に立つ仕事をしているのかを振り返り、でなければ 即座に持続可能な生活へ転換すべきである。これだけコンピューター処理が汎用化されているとき、業務が合理化できないのはおかしい現象だ。雨後の竹の子の ように出回るソフトプログラムに振り回されることなく、着実なシステムをまず作るべきだ。
生産者側も売らんがため、儲けるための態度や手法を改め、自然共生へ向けた哲学を持たねばならない。しかし、それでも物質主義の中に浸かったままで、同じ 道を進むやからは無くならないから、製品に対するチェックを厳しく、情報公開させ、最後は消費者の判断に委ねざるを得ない。そのためにも、彼らも一刻も早 く持続可能へめがけた行動をとらねばならないであろう。
さらに触れておかねばならないことは、分業という社会構造のもとで、他人を利用し利用される空間にしてしまったことである。例えば、日本では一般に食材、 食品を加工し過ぎており、素材の持つ本来の豊かな栄養と美味しさが味わえない仕組みになっている。精白しない小麦粉でのパンは見つからないし、簡単に自分 で作れるのに他人に任せてしまう。その分業ではその分野に固定してさらに利益を得ようとするから、安いエネルギーのみに走り、それに依存する態度を改める ことが出来ない。経済という言葉に隠れた人間のどん欲さそのものを表している。このことを産業にかかわる人たちも再検討し、いさぎよい判断が必要であろ う。分け合ってきた産業機構を今こそ自分自身で振り返り、環境へ負荷をかけるものは、上手に停止する勇気と意志が必要であろう。
大学;市外へ移って行くことは京都市にとってむしろよい現象だ。現在の大学は情報のみを与える-これは近い将来Multimediaが代替し得る-大学校 となっており、そして多くなり過ぎた。多くなったことで大学の教官のレベルも低くなり、ことに私学は少子化の影響も受けて、存在意義を疑うほど企業化して いる。すなわち、決して広く宇宙空間にまで言及するUniversityではない。現状は偏った小さな領域のみを専門的にやって行くことで象牙の塔を作っ ている。若者に創造的な夢を与える空間では決してない。
数は少なくてもよいから、より広く場を見ることの出来る人達、自然と接し持続可能性を見いだそうとする人達、との流れるような接点が、そして議論が必要 だ。いつでも彼らと一時的にあるいは長期的にグループを組んで、共同研究できる場を提供せねばならない。大学教員それぞれの研究は、絶えずその情報を公開 し、どの様に人間生活の幸せに結ぶつくのかを説明せねばならない。ここでもMultimediaが大きな役割を持つだろう。
商業;Multimediaを利用した販売網は、現在のやり方を変え、流通機構としても新しいネットワークを作ってゆこう。集計された商品を適当な箇所に 集荷し、Low hierarchyのもと助け合って各自に配分する組織を作ることによって、輸送のエネルギーは削減される様なシステムへと移って行こう。

おわりに
Kaiwaka村の現場で、さらに数年間のモニターを経た上で、結論としなければならない点も含めて、この度の論文に用いた。その不十分なところは、こと に有機農法による自給自足については、実験住宅で実行し検証して行くつもりだ。
ここに上げた項目について、単に都合のよい数項目のみを実行する程度ではあまり意味がない。太陽エネルギーを包括的にとらまえ、全体的に実施することで初 めて持続可能の系ができるからである。太陽とともに生きられる手法が醸成されれば、更なる宇宙へと人間の思考の発展は広がってゆこう。
太陽電池を採用していないのは、まだその地球への負荷が明確でないからである、と同様、コンピューターの生産過程からの負荷も明確にせねばならない。今後 の新しい工学的、医学的新製品については厳格にチェックを受ける制度をもうける必要があろう。人間には先を考える知恵を与えられている。どん欲さのみが先 走り、たやすさのみを求めていては、取り返しのつかない結果をもたらす。原子力発電所の事故やその廃棄物からの放射能、抗菌性のできた細菌、成層圏にた まったオゾン層の破壊物質、さらには温室効果を助長する物質、毒性を持つ分解できない化学物質等など、間違った結果が示されれば、直ちにその行為を止める 勇気と謙虚さがなければならない。遺伝子の組み替えも急速に行われ、我々の口にする食品にすでに入っている。少なくともどれに入れられているのか消費者に 知らされる必要があろう。
人間は悲観的な論理をたどりたくないようだ。原爆があればそれによる戦争が起こる-より単純で明確な論理だ。それに対して、多くは地球の末路となるような そんな行為はしないであろうと、希望的な論理を形成しがちだ。化石エネルギーは、残念ながら、これまで使ってきたとほぼ同量の埋蔵量があるといわれる。ま すます需要量が多くなってきている現状では、意外に早く枯渇する時期はやってこよう。取り返しのつかない地球環境汚染を残して。誰かが何とかしてくれるだ ろうでは、その結論は変えられない。
人間らしい生活をするところから文化が始まり、育まれる。工学はその立場がなければ何も提供することは出来ないし創れない。古くからの手工業を具体的に見 て、やってみられるような空間、みんなで芸術を楽しめる空間、そんな喜びが得られる空間を作り、生活を楽しまなければならない。
最後に、全ての戦争を直ちに止め、太陽のあるかぎり素晴らしい生活が出来るのだという信念を持って、素晴らしい地球を取り戻そうではないか。持続可能なラ イフスタイルから個が確立され、ローヒエラルキーのもと他からの圧力や権力と無縁になると、権力闘争もなくなり、戦争もなくなるはずだ。

引用文献
1)桜井;"自然と共生する実験住宅-Kaiwaka村からの報告(その1)"、太陽エネルギー、Vol.21、No.1、27-35(1995).
2)桜井他;"自然と共生する実験住宅-太陽放射の集熱方法について-Kaiwaka村からの報告(その2)"、太陽エネルギー、Vol.22、 No.1、15-23(1996).
3)桜井;"自然と共生する実験住宅-温室での植物の生育による雑排水と炭酸ガスの浄化-Kaiwaka村からの報告(その3)"、太陽エネルギー、 Vol.22、No.4、34-37(1996).
4)Y.Sakurai;"Nature-friendly experimental house at Kaiwaka, New Zealand", Proc. of the 2nd Conference for 'Buildings and Environment'(CIB),Paris, 1997.
5)B & D.Halacy;"Cooking with the sun", Morning Sun Press,1978.
6)福岡;"わら一本の革命"、春秋社、1983年5月30日.
7)B.Mollison et al;"Introduction to Permaculture", Taragi Publishers,1991.
8)Y.Sakurai et al;"The reflection of sound at grazing angles by audi-torium seats", Appllied Acoustics, 39(1993),209-227.
9)Y.Sakurai et al;"Quantification of the synthesized evaluation of thecombined environment", Energy and Buildings, 14, 169-173, 1990.
10)桜井他;”数量化理論2類を用いた地域環境計画について”、日本建築学会論文報告集、387号、53- 60(1988).
11)芝田他;”プラスチックのリサイクルとその処理技術”、工学と技術(関西大紀要)、32~39、 1996。


(6) 大学校かUniversityか、私の経験した大学

私の国立大、私立大での教職33年間や、その間、訪ねた外国の2,3の大学での経験などを振り返って少し意 見を述べておきたい。

大学は多くなったが、若者達に何を、またどんな夢を与えているのだろうか。かつて同世代の若者の40%が大学に進学すると聞いた時代 から、さらに新設が毎 年行われ、この少子化の時代、きっとその比率はさらに大きくなっていよう。反面、いわゆる職人、技能職、専門職が減り、まさに学歴だけに身をゆだねた頭 でっかちの社会機構を作ってしまっている。親も大学を出さなければとせっせと仕送りをする。子供が社会の現状を見て、困惑し、混乱している時、親もどのよ うに指導してよいのか分からない状態で、とに角、大学に送っておけと、大学に子守を頼み教育の責任を回避する。
一方で、大学での教育は、学生達に何を与えているのだろうか。どんな豊かな夢や将来像の描ける機会や場を与えているのだろうか。個々の教授がその専門職の 中に閉じこもりすぎ、人間の幸せを目指し、宇宙(Universe)を見渡すという全体像を見失っているのではなかろうか。
すべてが形式を整え、安易な方向へ逃げようとしている。この形骸化の上に強い構造をはめてしまったこの日本社会は、末期的症状といわざるを得ない。

形式化とその結果の形骸化
ランク付け
一つの側面は、大学の優劣をランク付けし、出身大学によって人物評価を行っている点だ。社会もこれを便法として各所で使っており、各組織のトップは有名校 出身者が占め強く組織化し、がんじがらめの組織にしてしまっている。古い国での特性かもしれない。
大学内でも同様に行われる。日本の大学では、人事権は教授職が握る。その識見に将来の選択を委託するわけだが、その権力を個人的に利用するやからが多いの は、他の項でものべるとおりだ。
2000年にあったHanover万博の準備のためワークショップに招かれたとき、夕食時に、“Wie geht es, Dir?”(元気かい)とその中の教授にいったら、そっぽを向かれてしまった。“Wie geht es, Ihnen?”(お元気ですか)といわねばならなかったという。かの国でも教授の位置づけは相当なものだ。Goetingenの街中 にある第 3物理学研究所の音響研究室では、一教授が大きな施設に中で、助手、ドクターコース、マスターコースさらに学部の学生そして工作所に直属の技術者を擁す る。その教授の週1回の講義には、助手以下学生までが全員聴講する。まさに強いヒエラルキーのトップに位置する。

大学校、Green University
日本の大学と呼ばれるところは、ほとんどが知識を伝承するところという意味で(大)学校だ。小学校、中学、高校、と見てゆき、 Universityを大学と翻訳したのは、当時の人がその頃から大学校になることを想像していたのだろうか。英英辞書による言葉の意味は、最高学府とあ るが、そもそもは大きな宇宙(Universe)感をもとに、この教育の場を名付けたに違いない。
どう変えてゆくべきか。しっかりと考えなければ、大切な若者の成長期のエネルギーを無駄に使わせ、人格形成上でも歪んだものにさせているようにも思う。け だし大きな課題だ。
宇宙を知り、自然を知り、自然から学ぶために、自然のなかにUniversityはあるべきだ。
ある人は、このプロジェクトをGreen Universityと呼んでいたが、よい呼び方かもしれない。自然の中にUniversityを位置づけるべきという意見だろう。

マンモス大学とInternet
これだけ形骸化したマンモス大学には、意味をもたせられないし、その教育内容はおざなりなものとなって、単に勉強する場になり下がり、創造的な場としては 意味が薄れている。すでにUniversityとしては破綻している。マンモス大学校だ。それでも教育が受けられれば良いとする議論もありうるが、知識の 伝達のみならば、Internetでもまかなえるし、そのための良いテキストを作ってゆく作業も必要であろう。

社会への従属、批判の立場の回避
分化がもたらした悪い例として、現在の工学部に配属される建築学が挙げられる。単にコンクリートの建物を建てることのみを考えているに過ぎない。その本来 の目的は、人間らしい豊かな生活のできるシェルターを作ろうとすることにあったはずだ。従って、全ての自然が包括的に与えられるべきだ。大きなエネルギー 源が得られてきたから、それに頼る工学のみが発展してきた。その分岐点に戻って、建築を、工学を、再構築せねばならないと思う。
蛇足ながら、コンクリートの箱およびプレハブ住宅の設計ならば、すでにことは解決している。建物の重さに、風に、地震に、耐える安全設計、また、空調機へ の負荷を求めての快適設計、照明、騒音防止など、すべてはコンピューター化されている。もう研究するところは、この方向性において尽くされている。
正しい方向への可能性が多くの分岐点であった。明治開国時の工業化、戦後、化学肥料を押しつけられ、工業のみが主流となった時点など。あまりにもそのとき の近い過去を捨ててしまったといえないだろうか。そのエネルギー源は、水力発電のみに満足せず、たやすく手に入る化石エネルギーに依存してきたから、それ がなくなるとその技術は残らない。工学部は不毛の空間になろう。
大学たるや社会に従属するのではなく、将来を見据えて社会を批判する立場をとらねばならない。

外国からの評価
日本に住んだことのある外国人から聞いた話だが、日本の大学の評価は大変悪い。入りにくく出やすい。しっかり勉強していない、のじゃないかとみられてい る。したがって、日本の医者に対する評判はきわめて悪く、自分の健康は託せないと言う。大学に入れば後はトコロテン式に“容易く ”卒業できることは知れ渡っているようだ。

現代の貴族
一種のスーパーインテリのみが過去を越えられるというのか。彼ら一個人がそれを求めるために、他の多数を犠牲にすることは全く受け入れられない。東大、京 大は現代の貴族だ、とはよく言った。

ドクターコースはこれでよいのか、建築学科を例として
私の在職中の人事には、不可思議なことが沢山あった。形式ばかりでことを進めてゆく。

一つは、ドクターコース申請時のいわゆる「マル合」について触れておきたい。文部省には、ドクターコース担当の教授について一定の基 準があって、それに合 格する教授をそう呼んでいる。「マル合」の教授が一定数いないと申請は出来ない。私の在職中それが当時の教授陣では満たせなかった。長い間それが続き、中 からそれを育てきれないという背景のもと、ドクターコースのある国立大を63歳で定年退職した教授をそれに当てる。借り物でのしかも63歳では中味の充実 に寄与は出来ない。その当時を振り返ると、ドクターコースを理由に、それまでの6人の人事のうち5人までが国立大学定年退職教授であった。
この事実は、ドクターコースを造る能力がないということを示している。それに63歳過ぎの盛りを過ぎた老教授が来たところでどれくらい創造性のある態度 で、学位を与えるべく、指導してゆけるというのだろうか。
呼ばれたほうは、63歳から70歳までの7年間でほぼ2億円の収入を得られることになる。多くの国立大の教授はそれを執拗に求めている。63歳過ぎからこ のような高収入が補償された国は、世界広し、といえども類を見ないであろう。私立大学が、いまだにどんどん学部増設を含め新設されるのは、その様な受け皿 作りをしているともいえよう。役人がその役所の外郭団体や関連企業へ天下るのと同じ理屈だ。さらに、大学の数が増えると教授の数も増え、自ずと質も低下す る。
この様子は、文部省の後押しによる国立大学の老人ホーム化といわれても仕方あるまい。

建築環境計画の必要性
建築学は、建築計画(意匠あるいはデザイン)、都市計画、建築史に加え、各建物の安全性を議論する建築構造学、シェルターとしての建物に十分な居住性を持 たせる建築環境計画、の3本柱からなっている。建築環境計画は、以前、計画原論と呼ばれていたように、建物の性能に関する科学を質的に議論し、快適な室内 空間を作ることに議論の中心をおく。一定の軌道を描く太陽、それからのエネルギーや光をどの様に取り込み、室内の熱環境や照明環境をどの様に計画するか、 都市騒音からどの様にして安寧な室内環境を得るかなどが中心の学問だ。本論で縷々述べているように、太陽エネルギーと建物の関係はこの領域で論じられる。

このように位置づけられる建築環境計画において、建築音響は勿論、持続可能のプロジェクトについて、我々が面々とやってきた研究をも とにした発展が、一代 限りで終わってしまうことになる将来性のない人事は、社会的責任を負うべきであろう。
地球環境の危機が叫ばれている今日、建築学でその中核を担うべき建築環境計画が、何故構造学に置き換えられたのか。当学科でのこの選択は、環境問題への取 り組みの遅延をもたらし、その1日の遅延は、環境問題をますます困難な状態にしていく。その大きな責任を問われることになろう。

教授職への責任、教授職辞退の理由
私への教授昇進の打診は何回かあった。私は助手を伴わしてくれることを切望した。ドクターコース申請のために、そのポストを使って「マル合」の教授を連れ てくる状況を感じていたので、昇進は断り続けた。ささやかな抵抗ではあるが、弱いかな人事はすべて教授が握っている。
当時20年以上も勤務しながら一度も助手を与えられたことはなかった。夢をともに作りあってゆく機会は、残念ながらその後の年齢を考えると、最後のチャン スを失ったことになる。伝統を作ってゆくこと、そこにこそ個人の生き様が、その研究が永く将来への架け橋となり、人類のこの協同作業が歴史をつくり、次の 空間へと進んでゆけることになる。これは私の信念だ。
これが60歳で辞職した理由の一つだ。

不思議な民主主義
教室(学科)などの構成のトップは回りもちである。誰でもなれる状況にあり、その人の人格や思想は問われなくても良い。そして、教室(学科)という組織の 下部の単位で決められたことは、工学部という上部で尊重され、徐々に大きな組織の代表意見になって行く。その小さな単位を握るボスがいれば、例の根回しで ことが決まってゆく。結果、小さな単位でのボスの意見が、大きな団体の意見として通じてしまうことになる。

構造学偏重でも通した文部省
建築構造学は、基本的には力学を扱うところであるが、専門分野が小さな領域に分けられていて、そこからの研究者を連れて来るので、似たもの同志が集まり、 全く建築学のバランスがくずれてしまった。構造学は爛熟期にきており、建築計画に資してゆかねばならぬ。その立場をなくしてしまった。
構造学に偏重した人事が許される理由は別にもある。修士コースでは、国立大の講座制になぞらえるべく、異なった専門領域の教員で形式的にチームが組まれ る。それも年によってころころと変わる。実質的に助教授が指導した場合、その論文はそのチームのヘッドの教授名のもとで審査が行われたとする。過去、私の 研究室では全てこの形式を踏んで工学修士を生んできた。環境工学の論文を構造学の教授が審査したという結果になった。ついでながら、彼らに所属学生がいな くても大学院手当もその教授に与えられる。これがドクターコースに当てはめられると、どうなるのであろうか。形を踏みさえすればそれでよいというのだろう か。
建築学はもっと幅広くトータルで考えて行くべき場でありながら、この様な閉鎖社会では許されてしまう。こんな私的なごり押し-自分の構造学の仲間を連れて くるという-が通り、事が決まっている。

構造学4人+計画1人+歴史1人で出発し、文部省はドクターコース設置を認めた。数年後には、天下りの教授も退官するから元の講座に 戻せる。この時は文部 省の審査はあってもないも同然(この背景は私自身詳らかではないが、一旦設置したものをつぶすわけには行かない)、ドクターコース設置に対する文部省審査 は何のためだったのか。
「マル合」による審査制度は一体何を意味するのか。形式を満たせばそれでよいということでは、良い出発は出来ないし、それを利用してドクターコースを作ろ うとする手法も容認せざるを得なくなる。そして、天下りが大学の老齢化をもたらしてしまう。
時代とともに教官は変わろうが、それに期待してよいドクターコースになるであろうことを主張するのは無責任だ。悪い出発で、充実したレベルの高いドクター コースになる保障はどこにもない。中から作ってゆかねばならないからだ。
4人の教授が構造学を担当したことで、どの様な画期的な研究成果が得られたというのか。日本建築学会誌を通じての情報でしかないが、すばらしい論文が出さ れたということを聞いたことがないのは残念だ。
学内の規定では助教授になってから7年経過、学位取得後3編の原著論文があれば、ほぼ自動的に教授になれる(それも厳密には議論していないようだ)。文部 省の「マル合」はもっときついはずだ。いったんコースができれば後はなし崩し、厳格なチェックはないように映る。
実態は中身の充実しないままの安物のドクターコースとなる。教育機関としては受け入れられるかもしれないが、博士号の学位取得を指導し、その審査をする機 関にはなりえない。

大学院(ドクターコース)ができ一体中身がどの様に変わったというのか。老人族を借りて申請の通った後は、もとの教授構成のままにす る。それらの教授に実 力があれば、そのままでも申請できていたはず(実力がなければ申請は取りやめるべきだと思う)。審査過程がなんら意味を持っていなかったことになる。
このようにして、私学が国立大の(一部の教授の)天下りの犠牲になっている、と私は結論付けるのだ。強い形式的な力の構造が、なかから燃えるエネルギーを 押さえ込み、足を引っ張る構造へと変わりつつある。

残念ながら、建築学科の人事にも方針がない(=建築学を教授自体が分かっていない。そして、文部省のせいにする)。将来計画たるやな おさらである。そこに こそ、教授の権威に託し、人事権が与えられているというのに。
結局、学科で最大の実績を上げ(在職中の業績に対して日本建築学会賞を受賞したのは、建築学教室で私のみだ)、健全に育ってきた環境工学の講座は伝統の一 部にすることもなくつぶされてしまった。

夢を描いてやってくる若者達に、科学に夢を託し着々とやっている若い学者の卵に、年寄りがやってきて、それを摘むようなことは犯罪 だ。結果、今の建築学科 がどの様な夢を与えられるというのだろうか。

大学ことに私学の歴史
作りやすいものから作った出発
日本の大学は作り易いものから作った帰来がある。文学部、法学部、経済学部などは、教室があって教員がいればよい。私学はことに金儲けのためにマス教育で 出発したのは明白だが、国立大でも出発時はその様な側面を持っていたのではないだろうか。
日本のごく一部の私立大学は、崇高な理念の下で出発したともいわれる。しかし、多くは、儲かる学部から出発し、決して、宇宙にロマンを描く Universityへの展望からではなかった。

人間を機械的要素と見て人事をするのは、間違いだ。人を操ることのみを考えることになるため、中身のない構造を作ってしまうことにな る。それぞれ個性を 持った個人をその構造にはめ込むからには崇高な哲学が必要だ。でなければ人を道具と見なす最低のヒエラルキーになる。

危惧
このように大学の状況を、形式的、閉鎖的なところだと見るとき、第2次大戦前、やみくもに工業化を背景に、軍事力増強に走った井の中の蛙のような存在にな りつつあると感じている。
みんなで一緒に渡れば恐くない(=民主主義)、のままでは変革はできない。本当の意味での個人主義を育ててゆく必要があろう。間違いが間違いといえる人格 を築いていく必要がある。そのためには一人一人がよく勉強し、創造的な思考を続けてゆかねばならない。大学教授はそのような責務を持っている。
この人種への批判は引用文献を参照されたい。姓は同じだが、個人的になんら関係はない。念のため。
桜井邦朋:“大学教授そのあまりに日本的な”、地人書館、1992年。

建築学について
コンクリートの箱(ビル建築)のデザイン手法はすでに出来上がっている
現在の建築方式は楽なのだ。デザインも箱から出発している。自然の中にうまく調和する様にデザインすることは、発想の中に存在しないし、自然を理解しよう とする態度がないから考えにも及ばない。自然の与えてくれる材料を用い、太陽の恵みを用いようとしない。誰が住宅の丁寧な日影図を描き、熱の授受を計算に いれ設計しているだろうか。
コンクリートの箱を作ること+構造計算で安全性を確かめる+空調機を入れること+断熱材を云々すること程度で現実は動いている。これらはすべてコンピュー タープログラムに組んである。設計が非常に楽だ。熱損失による化石エネルギー損失、すなわち炭酸ガス発生量の議論などはしない。
太陽エネルギーの利用が、唯一、持続可能に生きられる手法であることは、縷々本論で述べたとおりである。

観念的な建築学
現在の大学で議論されている建築学は、観念で作り上げられた建築学だ。
実際に家を建てて見ないと、理解できないことは多くあり、建てる過程で、それを作った後住んでみる過程で、学ぶものがいっぱいある。いや、そこに正しい建 築学がある。そこから学びとるべく、場を作ることに建築学の方向はあると思う。

教授職のあり方
本当の学問とは何か。何か小さな部分を深くよく知っていることで、その知識だけを武器に、個人の尊厳は作られるか。その領域が工学の小さな領域にあるにも かかわらず。
建築学は、本論でも述べている様に、自然と接する本当の科学を求めて行く場である。建築を知識のみで考えるのは間違いであろう。
人間の醜さ
・傲慢さをあらわにすること。
・その傲慢さを民主主義の名を借りて、集団の意見として置き換えるテクニックを持つ人間が居ること。

予防医学的立場
快適性を求めることだけを考えてはならない。幅広い季節の変化から、生きるための免疫力を培っているということを忘れてはならない。建築設計には、その様 な位置づけが必要だ。予防医学を受け持つ大切な場としてそれへの追求も大きな一つの役割だろう。

施工技術者との十分なコンセプトの確立
例えば、マンションを建てるとき、今後のエネルギー問題を考え、外側断熱がよいのだとする意見が出る。一定のコンセンサスが得られて、建築業者と話す。彼 らは高くて施工上の問題があるから、これまで通りにしてはと。その意見を尊重し、挑戦的に将来を見据えるのではなく、レベルの低い意見で押し切ってしま う。結局、時代の趨勢、多数意見に簡単に従ってしまうのだろう。その背景にも、いわゆる最近の日本的民主主義が見えかくれする。このような現象は各所にあ る。これをどの様に改善して行くかは、意味のある大きな問題だ。

高層建築批判
コルビジェのユニテは鉄筋コンクリートの効率を求めた経済行為である。それがオフィスビルに利用されたのは皮肉なことだ。-その考えが日本ではオフィスビ ルからマンションへと使われた。
そして高層ビルには、地震対策として、免振、制振と技術論が持ち上がっている。前者においては、ばね定数を大にするから、普段は強風時にも船酔。後者で は、余り大きなマスにすると立ち上がりがゆっくりで間に合わない。それまでして高層化は必要か。
非線形領域では残留歪が残る。85%が線形、15%が非線形。一旦非線形領域のストレスを受けると、設計時の応答は期待できない。危険と隣り合わせの生活 はしたくない。高くても4階までの低層住宅に戻るべきだろう。

コンクリートの中での講義
人間の生きるべき多様性を、コンクリートビル内の一定の所に集めて講義するのでは無理だ。大学校化してしまっている。知識(それもバランスを欠く)を与え るのみで、創造することを忘れた場になっている。

建築学は崇高な場だ
建築学は、“人間の生き方”と離れて存在はし得ない。“快適な住まい& rdquo;とはなんだろう。
単に物理的条件を整えるだけでは意味がない。人間が生きるとはなんだろう。生と死の間
に何を得ようとするのだろうか。確かなことの一つは明日への着々とした進歩であろう。
そして、死の世界での精神的発展へとつなげて行こうとする努力の過程でもあろう。
では、明日への進歩とはなんだろうか。具体的には個人個人の持つ条件、環境において為されねばならない。人はそれぞれ違うのだから。しかし、人間らしい進 歩を考えるとき、大自然、そこに住む鳥、花、草、植物、動物、鉱物、雲、地球上の万物の中に自分を置き、そこを出発点として展開して行くことになろう。
それには、絵画、彫刻にかかわる上での丁寧な観察と同化、目の前に広がる空間、それをこえた幻想の世界への詩歌、そしてその表現の中での瞑想、そよぐ風、 小鳥の歌等々を感じて歌いあげる。生き方を具体的に模索する中での文学、美しさを具体的に模索する中での文学。
日々にこのような要素がなくては何にもならない。このような生きることの基本概念をぬきにして建築学はありえない。

デザインに自信を持って人に説得する哲学を
図面を引く前に、まず、しっかりと自然を理解することが第一だ。Kikuyuという北島にはびこる芝草は、図面の上では簡単に消しゴムで消してしまえる が、現場ではなかなか消えない(簡単には除草できない)。
設計道具、CAD(Computer Aided Design)など、便利に使えるようになってきた。設計には、CADを徹底的に用いてはどうか。CADによる直線ははっきりしているから、そのデザイン のよしあしがはっきりと示される。Freehandの曖昧さを除くために使うべきだ。
デザインを徹底してやる場がない。実際に建てるときは建設グループが相当な利益をとっているし、それを是認している社会的習慣がある。最後には建築費を値 切ることになり、仕上げはデザインと共に中途半端である。結局、完全なものを作る態度が無くなる。すなわち、なれ合いになって進歩がない。デザインの低さ は、建築費が削られたからと何時もどこかに逃げをうっている。

持続可能な場の確立とそこでの教育研究
コンクリートの箱の中に居れば、国内はもとより外国の豊かな文化に触れたくなるのは当然だ。日本の風土に基づく豊かな文化を誇りにした住まい方をし、世界 各地の風土で培われた文化から、さらに高次のインパクトを得、精神的にもエネルギーを得て進歩発展させてゆくことが大切だ。
現在、緊急に必要なのは、また社会が与えなければならないのは、将来の地球環境を真剣に考えている若者を吸収して、具体的な持続可能な生き方の実践の場を 与え、研究させる空間の提供だ。年老いた教授陣が方向(そのこと自体がないといったほうが良いかもしれないが)を決めてしまっているのはおかしな事だ。

学部4年、修士2年、それでもまだ勉強したいという学生もいることだろう。各大学がそのユニークさを出してドクターコースを作り、そ こで勉強するというこ とは、教育の場としては意味を持とう。しかし、これは先にも述べた形式で作られる場ならば、研究、創造の場にはなりえない。その大学が、中から燃えるもの を持ち、面々と伝統を作ってゆき、世に問うことだ。

将来像
最近までの工学は物質文明、もっと悪く、金を得るための手段に供してきた。学問あるいは科学は、自然を理解するところから始まり自然と共にある。自然の中 でいきいきと生きていなければならない。緩やかな変革を必要とするときがきたと思う。そして学問には正直にあるべきだ。
科学はまず自分のそして人間の生活を豊かにするための知識とならねばならぬ。必要性と関わり無く、知識を詰め込むやりかた-受験勉強方式など-そこからは 健全な問題意識は生じない。
他と競争するという考え方は、どうして生まれ何に起因するのだろうか。その大きな原因は社会そのものにあると思う。激しい社会での葛藤にうまく順応するよ うに、大学も親も必死になって向かって行く。人格形成は二の次だ。
ではどうすべきか。持続可能な生活方式を身近に置き、それをさらに発展研究する科学を、そのような生き方を基にした予防医学(Preventive Medicine)を、文学を、芸術を、と個人の創造的活動を鼓舞し、発展させていかねばならないと私は思う。
自然の中での持続可能な生活においては、競争も一切不必要となる。自然の流れの中に自分をおき見つめ、歓喜を求め、楽しみの中に精神的進歩を求めてゆくこ とになる。
これだけ環境問題が議論されており、少なからずの若者が、何とか自分でも協力してゆけないかと場を探しても見あたらない。大学にこそ、そのような若者達の 空間をつくってゆかねばならないであろう。

大学校とUniversityの区別
現在の日本の大学は、Universityではなく大学校と割り切るべきなのか。研究する所は別の場所、組織にしなければ創造的進歩発展は期待できないの だろうか。
殻を先に作るのでは駄目だろう。先に創造的な何かがあって、自然発生的組織が出来て行くものだ。アメリカではマスでも議論しているが、小さな部分が自由に 集まり、事が済むと解散も容易にしている。その様な自由なやり取りの場にこそ、個人主義に基づいた今日の結果を作っているエネルギーがある様に思う。ベン チャービジネスの育て方にもそれが見られるのではないか。日本ではそれを企業が買い取って押さえ込む。
必要が生じて組織を作るとき、ユニークな発想とアイデアを持つ者がチーフになるべきで、地位やタイトルで選ぶべきではない。日本の社会はそれを踏襲してお り、日本の社会構造の基礎を根元的にまちがわしめている。組織内では有機的結合が大切だ。
そのチーフもいつも自分を振り返り、その器ではなくなったと感じれば、人に委譲する客観性も備えていなければならない。権力の保持に執着するのではなく。

学ぶ場は自然にある
N.Zにおける現場の人達のこのプロジェクトに対する興味の示し方は大学の研究室のそれとは異なり、直接的で大変積極的である。異なる各職人も自分の領域 のみならず、この住宅建設をトータルでみようとする。人名付けて“緑の大学”、ここに将来の住宅設計を求めてゆ きたい。土壁につ いて、茅葺について、有機物処理の浄化槽について等など、Workshop的な現場活動の場にしたいと思っている。小さいながらそれも一つの手法となりえ よう。

中から燃えるもの
社会の要求があるからという工学(のテーマ選択)の口実はもはや成り立たない。狂気にも似た物質主義に染まった社会が人類の幸せへと何も提起できないのだ から。したがって、それからはっきりと離反して、枠を作るのではなく、むしろ中から燃えてくるもので大学を作らねばならない。そして、社会を批判してゆか ねば進歩は得られないだろう。

バランスのある科学
中教審の「とび入学」は、物理、数学というある科目のみを基にした試験であり、ますます歪を来たそう。少子化への対応手段として、受験科目を少なくしてゆ くことで受験生を集める私学の傾向も同様に、創造性豊かな若者を育てる道ではない。その創造性とは、大きく宇宙を見ながら思考し、豊かな自然を愛すること の出来る人間にのみ与えられる創造性である。それを教え育てねばならない。

社会への公開性と社会との有機的結合
各人はいつでも持続可能な生活で疑問に思ったことを、大きな設備を持って公開された大学-といっておく-へ出向き、自分の試みを行う。うまくゆかなければ そこでさらに研究し、結果を持って持続可能な生活にまた帰る。またアイデアができると行ってみる。そんな自由で有機的な場の新しい社会システムを構築す る。そして、人間社会全体を大学にする様なコンセンサスが必要だ。大きな機械を作れば、そこに創造性を持った人間が自由にやってこられる。そんな自然な流 れが必要だ。
最先端の技術による大規模な設備は、使用についても公開されねばならぬ。資本の占有を許すと、人間までそこに拘束される。そこへ自由に出入りできること で、各人の持つ創造性が結集され、人類にとって意味のある大きな創造性のある発展を成し遂げることが出来よう。

知的生産物の共有
Universityとは、知的生産物を共有する場である。そのための場所は一定の所に作らねばならないだろう。

まとめ
大学を大学校と割り切り、教科書片手に教えることを主体にすると、研究を他に期待し、いつまでも責任逃れになってしまう。そのために教官は絶えず研究領域 に自分を置いておかねばならない。教科書片手の講義ならば、むしろInternetの視聴覚を駆使した情報で置き換えられる。
研究に専念するところ、それ独自の場所を作り、学生や社会人の出入りを広くスムーズにする。学生の若い柔軟な頭脳、社会人の自然から体験した科学は、何に もまして大切だからだ。
その意味で最近の大学院大学というのが一つの可能性を持っているようにも思う。大学を出て少しは自分なりの問題意識を持ってきていようから、やっとポジ ティブに参加できる。
大学院大学も、その中でやっている具体的な研究内容が、将来社会にとってどのように役立つのかはっきりと述べ、有能な若者に広く開放されるべきだろう。

このプロジェクトは個人の創造性を求めることにあり、いわゆる民主主義(民主的)との葛藤とも位置づけている。創造性のない空間で は、いわゆる多数決で決 める民主主義に全ての理由を託し、根回しに走ることになる。
多数決の罪。科学が、学問が、自然が、人間の多数決で決まるわけがない。
人を利用しあう社会を作ってはならない。
研究は地位でやるのではない。自然と神への直接の問いかけである。神からのインパクトである歓喜を求めてやるものだ。不運を嘆くことはない。


(7) 英語教育のこと

こんな英語教育では、外国では役に立たない。国際会議では、いつも、かゆい所に手が届かないいらだたしさを 感じる。日常での議論でもしかりだ。
日本は、体質的に変化をしにくい。通じない英語と言われながら、10才頃から始めると良いといわれていながら、変えようとしない。

日本語の持っている宿命、一言でいえば、母音を伴う音節が聞き取られないと、理解できない言語ということ、それに対して外国語は子音 を主として聞いている ということ、これらを無視して教えようとしても不可能だ。
英語教師自身が、子音が大切であることを学び、それを間違いなく発音できなければならぬ。

始める年齢も大切だ。10歳までに、しっかり教え込む。
言葉が我々の耳に達すると、先ず、何語かなと判断する。日本語だと分かると、その信号を、ニューロン→シナプスと送り、大脳皮質に伝え て、理解 をする。日本語のみで生活していると、英語を理解する新しいルートを開発しなければならない。10歳までにそれをやると、両方のルートが開発されて、 Bilingualによりたやすくなれる。
あるとき、友人(日本人)の家族が、1年間の在外研究でAKLに滞在した。中学一年生の女の子を頭に3人の女の子を連れて来た。一番下は小学校二年生くら いだったと思うが、1年後に彼女らの英語を聞いて、それぞれがうまくなっていたが、一番下の子は、ずば抜けてうまくなっていた。音楽に合わせて踊る様子ま でKiwi風だった。
このニューロン→シナプスの通路は、使わなければ退化してしまう。これも日本社会
の受け止め方が大きな問題だ。帰国子女のための教育が言われているが、その中から英語教師を募る方法もあろう。その時は、学歴ではなく、資格試験を通って いるかではなく、発音とその聞き取りが正確に出来ること、が選考の基準になろう。人格は当然問われようが。現状では仕方がないので、Native Speakerに頼み、正しく教えられる先生を養成することが必要であろう。
Native Speakerとして、まだ学校にも行っていない子供に英語を教えようとする機会があったそうだが、彼らの両親のなかには無理やり、覚えさせよう話させよ うとするが、まだ知識も十分備わっていないから自分の意見もまともに表現できないのに、詰め込もうとするのは間違いだ、といっていたのには同感した。した がって、はじめる時期や速度も大切で、小学校に入る頃から少しずつ初めて10歳までに両者を上手に教えるのがよい方法だろう。

学校において英語の授業が、授業科目の正課と同様に扱われている。正課とは別の扱いで、羞恥心を持たず、楽しく学び、上達することが 望ましい。間違いはみ んなで笑いとばすような雰囲気がほしい。

中学校、高校の先生の英語自体が間違っており、したがって、その教育法が間違って
いる。正しく発音でき、正しく英語が出来る先生から学ぶべきだ。

日常会話に使う表現も丁寧に教えるべきだ。それは会話の楽しさを作る。また、スラングや流行語もなおざりには出来ない。

●英語力をつける上での知識
次に、英語が上達するための知識として、両者を比べてみたい。
お互いを理解したり、情報を伝達するのに使われだした言葉は、約束事、文法を基本にした論理的手段である。我々は、左脳、右脳を持ち、左脳は論理的処理、 すなわち、計算や言葉の理解などに優位に働く。右脳は感覚的な処理、すなわち、空間や時間感覚を優位に処理する。
ある音響学者は次のことを見出した。“西洋人は子音を左脳、母音を右脳で聞き言葉を理解する。一方、日本人は、左脳で子音も母音も聞 き理解す る。”言語は、論理サイド優位の左脳で処理されるから、右脳で聞き取る母音には大きな意味がなく、子音のやり取りで意思疎通をしてい ることに なる。日本人は、両方を左脳で聞いているから両者に等しく重みがかかっている。

1.日本語は、母音と子音に等価な重みをおく。
彼らには母音は、ほぼどうでもよい。われわれは、Studentの代わりに、Sutudenntoといってほしい。
2.子音は音響パワー(音の大きさ)が小さいので聴き取りにくく、慣れていない。
あ、い、う、え、おの母音は、k、s、t、n、m、などの子音に比べて、大きな音だ。いつもその大きな音のある音節を持つ言葉を聴いているから、その小さ な音に慣れていない。
子音(母音も混ぜてよい)をでたらめに並べて、それらのレベルを系統的に変えて、どこまで、日本人が聞きとれ、西洋人たちがどのレベルまで聞こえるのか、 すなわち、閾値の比較実験をするのは興味がある。おそらく前者の閾値は小さいだろうから、英語教育において、しっかりと正しい子音を聞かせる訓練、発音さ せる訓練が必要であるという結論になろう。
3.ホールの音響テストの一つに明瞭度試験があり、でたらめな順番で発せられた音節、例えば、ポ、ア、カ、シュ、バ、・・・・と与えて、何%聞こえるかを 見るものである。音節明瞭度とそのときの文章了解度の関係は、日本語におけるのと、英米語におけるのとでは、興味深く異なりその様子は、図に示す。
日本語においては、音節の了解度が文章のそれと1対1で対応(45度の勾配)し、英語のNative Speakerは、音節が20%聞こえると、50%の文章了解度が得られ、米語となると80%の文章が了解できることを示している。



図7 -7-1 英語と日本語における音節明瞭度と文章了解度

このことは、母音を伴う音節を聞いているというより、子音を聞いているからだろう。
日本人は、母音と組み合わせて初めて子音を認識する。英米人は、子音そのものを識別
できる、ということにもなる。
4.日本語は、一つの音節で多くの意味を持つ。
例えば、「キ」は、気、機、木、期、来、黄、記・・・・・の如し。一つの音節に十分な注意を払わねばならない。
そして、2つ以上の音節を持つ言葉において、ある音節を聞き誤ると、全く異なった意味になる。
例えば、ワタシ(私)において、一つの音節を聞き逃すと、タシ、ワシ、ワタとなり、意味が全く違ったり、意味のない言葉になってしまう。音節をひとつたり とも聞き逃せないわけだ。
5.日本人は、習慣的に、あまり舌や唇の動きを使わない。
Bevというテニス友達の女性に、Bebと呼んでしっかりと訂正させられたことがある。後々までよい勉強になっている。

以上、かいつまんで私の感じていることを述べたが、英語を克服する道はありそうだ。

英語とのBilinguistになると、日本文化がおろそかになると懸念する人たちもいるが、むしろ外国文化と比較照する中で、自ず とより深まりより大切 にするようになるのではないか。パリであった国際音響学会参加途中で、出来た余暇を利用してChamonixへ立ち寄ったときのことだ。教え子とレストラ ンで夕食をしていると、ひとつ隣のテーブルでドイツ人家族とウェイトレスがやり取りをしている。
ドイツ人、“Zwei Cafe, bitte”
ウェイトレス、“Deux café?”
ドイツ人、“Nein, Zwei Cafe, bitte”
ウェイトレス、“Deux café?”
単に2杯をあらわすのに、Zweiとdeuxで言い合っているよ、と教え子と喋っているのに気がついたのか、3回ほどのやり取りで止め、結局2つのコー ヒーを注文どおり得ていた。国境を線で接していても、かの国々では、しっかりと、Identityを守っているのだなと感心したことがある。因みに、ドイ ツでは、9歳から英語を義務教育の中に取り込んでいる。
各文化はIdentityを失ってはならない。英語をマスターする上でもその立場が大切で、Bilinguistになりつつ、それを教育してゆかねばなら ない。きっと言語間のみの比較においても、新しい文化的発展が得られると思う。失いつつある江戸末期まで面々と、そして爛熟していた文化は、明治開国に よって、工業化、物質文明に押さえつけられたわけで、外国文化や英語の故にではない。


(8) 米作りの記録

2004年2月22日Koanga Garden Harvest Festivalでの講演の機会に、これまでの流れのおおよそを以下のようにまとめた。各年度の詳しい様子は(I)~(V)に示す。

1997年池からの溢水で自然にできた小川内に植える。丘の影になり日射不足さらには肥料不足で淡い黄茶色の実ができたものの中身は 入らなかった。
1984年産のユキヒカリ(北海道種)を種籾として日本より持ち込む。
1999年田んぼの準備ができず、いろいろなところに試みたが、失敗だった。
2000年田んぼができて4月11日から5月14日収穫。水を入れずにやったが、ヨーグルトの容器2杯分の種籾が取れた。これが以降の種になった。この 後、粘土層を入れてもらい、田んぼの形態が整う。(I)p.1
2001年5月43kg収穫。多くを鳥に食べられた。60kg以上取れていたと推定。
この後鳥よけネットをしっかりと作る。(II),p2
2002年80kg収穫。(III),p11
2003年48kg収穫。(IV),p19
2004年78キロg収穫。(V),p24

エネルギー危機で米が輸入できなくなる。その準備をしておかねばならない。
仮に日本の歴史が2000年としても、米つくりを2000回しかできなかったと考えると、その古さの感じ方もことなったものになる。その間、米つくりを綿 々と改革し続けてきたわけだが、短期間でも多くの人々の協力で、異なった場所で、異なったやり方で、異なった結果を得ることで、すばらしい次の手法を見出 せる。
食料を得て生き延びるという戦いは過去から現在へと大変な努力で続けられてきた。農業はその基本であったろう。それに反して、近代科学がどんどん発展し て、その延長上に食料獲得があるような錯覚さえ生み出そうとしている。それは大宇宙を構成している神の教えへの反論ですらあり、架空の世界に生きようとし ている姿ではないか。自然の恵みのもと、豊かな食生活を確立し、物質文明を否定し精神的な進歩を目指せる世界を創り始めようではないか。

(I)2000年4月11日から5月14日収穫の米について
田んぼに水を入れないとき、というより水を保持できなかったときの収穫で、合計でヨーグルトの容器(1ℓ)に2杯分取れ、その後の種籾となる。ユキヒカリ が原種で、1984年北海道産のもの。緑色の防腐剤でコーティングされ、プラスチックの袋内に炭を入れて保管されておりよく乾燥していた。 3/04/04プラスチックコンテイナーに移して保管している。種籾が何年持つかは興味がある。
田んぼの土質は水を透過し、水をはれなかった。従って1/4くらいのところに、9列、苗を植え、近くに穴あきホースを配し、隣の池から手押しポンプで水 を、むしろ散布した。池の水も夏に向かうにつれてだんだんと減っていった。
そのほか、池の西北隅にも1箇所植え、田んぼの一部に、一切水をやらないで観察するところもつくった。
以下は各列と収穫の日である。ただし、北から1列目は、近くで草を燃やしたために、全滅してしまった。収穫といっても充実した穂を順次摘んだということ だ。
4月11日北から6列目と9列目、
田んぼ内で水をやらなかった部分
北から7列目と8列目
池の隅の穂(水が与えられ明るい米らしい色)
北から2列目と3列目
4月21日北から7、4、2、3列目
4月26日北から6、7、3、4列目、と池の隅から。
5月3日来たから6、7、8列目
5月14日穂の垂れたものすべてと池の隅から。
摘み取りが1ヶ月にわたったのは、どのときが最適かまだ知らなかったということもある。
かくして、これらはそれ以降のKaiwaka米の種としてその誕生を見たわけである。

(II)2001年収穫分について
以下は、2001年6月9日(土)Green Marketでの講演(30人ほど来てくれた)の原稿から。

My experience to grow rice at Kaiwaka(2001年の収穫について)
自然からのエネルギー、近くにある自然にやさしい材料、回りを汚さない、有機農法による自給自足、すなわち、太陽のエネルギーに依存し、自然に負荷をかけ ない生活を目指している。人類の使用するエネルギーの15,000倍もの量を与えられているのだから、難しくなかろう。
プロジェクトの全体像をさらに説明したがここでは割愛する。

(A)米作り
何故米か。玄米で食べると小麦などと同様、栄養のバランスがよい。付け加えるべき他の食物が少なくてすむ。大豆が採れ、黒白ゴマが採れ、後は鶏のお世話に なれれば、基本的な準備は整ったと云えよう。このプロジェクトでは、2500m2で4人構成の家族が生きて行けるだろうか。すなわち、いかに小さな土地で 持続可能が実現できようかも大きな課題である。
驚かすつもりは更々ないが、40年すれば石油が無くなり、豪州からの米の輸入が困難になるときが予測される。その時のためにも是非準備しておかねばならな い。また当地では雨が多すぎて小麦はとれにくいだろう。
ここに3種類の稲がある。何れも失敗した年のものである。確かではないが、1997に始め、1999,2000の例がそこにある。97年は光合成が十分得 られず、他の2年は水が十分ではなかった。失敗は必要で、経験は豊かな方がよい。農業は経験だとはよくいったものだ。

具体的スケジュール
2000年7月初旬からrefillの後の凹凸の平滑化(Grantが粘土を入れてくれた)
昨年の中央の2列から種を選択。ここでの品種は、ユキヒカリ、1984年頃登場。北海道産としては評判がよい。子供の頃北海道では米は育たないと教えられ た。
卵が浮くような塩水に種をつけて、沈むものを選択。
9/15苗床の準備。苗床は、30cmx90cmx140cmの木の箱の内面にビニールシートを敷き保水。普通の土に少し砂を混ぜた。これまでにそこに 育っていた稲草全てをそこに残してそれを混ぜた。
9/16第1回目(KWと共に近畿種も)の浸水。
9/23苗床に9/16浸水分を1/3に播種(後に第1区分へ)。一部を田圃の水のありそうなところに直播き(投げ込んだ)。手ポンプで注水。まだ堆肥は 入れていない。
9/29代かき(理由;粘土の細かい粒子でSilting。排水がうまく行くようにする。雑草を抑える。)
10/23回目の浸水。去年と同様のスケジュール(後に第3区分へ)。
10/3代かき。
10/4代かき。池から揚水。比較的奥まで給水できた。
10/5代かき一段落。堆肥を播き始める。
10/810/2浸水分を苗床に播種。
10/10堆肥の絨毯を敷き終える。
10/23ポンプで揚水。即田圃へ。
10/24次の種の浸水。しかし結果的に収穫せず。
10/26代かき。
11/1古いモーター(1/4馬力)が壊れたので200ドルの3/4馬力に代える。
11/2田圃満水。
11/7草抜き(Rob)。直播きの苗3本出る。
11/13代かき。
11/18苗床に灰。稲はカリウム(K:potassium)を好む植物である。
11/22綿の糸に30cm間隔に印を付け、井形に座標を組む。別に30cmの間隔に印を付けた1本の糸を、その間に引きその印の位置に、 30cmの合板の上に乗って、最初の田植えをする。295本。25日245本、26日78本。合計613本、28列。これが第1区分だ。
11/279/22浸水の分を212本、8列に田植え。28日57本2列、29日172本6列。第2区分終了。合計441本16列。
11/30水際(Swampgrass、Pasplum、Papirus、Bulrush等)と土手の草刈。
12/3近畿種の田植え。種が古くて発芽率が悪く、46本のみ。2列に植える。
続いて、3回目浸水の昨年と同じスケジュールの分を第3区分として田植え。86本3列。
12/6第3区分、120本4列。合計第3区分で、206本7列。
12/10灰を一部に撒く。続いて11日、全面に撒く。緑がかった藻を観察。13、14、17日ガンジキで藻をすくうが、後日富栄養化ではなく、よい藻だ ということが分かる。
2001年1/12第3区分で最初に出穂(夏至から20日後)、13日第3区分でも見つける。浸水や田植えは1から2週間ずれていたが、夜が長くなったこ とを感じるタイプで、一斉に種にエネルギーを供給し始めたのだろう。出穂の時期が似ているというのは面白い。後に2005年も似た時期だった。
1/25白っぽい穂や、茎の一部が茶色っぽいもの等病気っぽいものも見つける。それらは採取して後日焼却。
1/26キラキラひかる銀あるいは金色のテープを張る。田圃にはいるとばりばりと、根を踏んでいる感じがした。横にも沢山張っている。
1/29木灰を全面に撒く。
2/25かめ虫を200匹、缶に落として取る。2/26、3/1、2と続けた。
3/10キラキラ追加。雀が縁の稲から茎を折って穂を倒し地面から食べているようだ。木の黒猫、アワビのキラキラのせいか一時は効く。ラジオも一時は効い た。雀は水が嫌いなようで、水を張る。
3/28周縁に張ったネットの上から食べている様。ネット張りを決意し張る。かめ虫、イナゴは近づくと裏に隠れる賢さを持っている。
この後は、雀とPukekoとの知恵比べ、結局負ける。結論は、高さ2m位の高いネットを全面にかけることだ。
日本ではRiskを覚悟して同一種の米を育てている。ネットは見たことがない。農協。しかし、ここで注意すべきは、新しくできた米に皆が飛びついて、同一 種を育てると、突然の病気、気候不順によって大きな被害(新種は受けやすいようだ)をうけると、古い遺伝子を持った種がないがしろにされ、無くなってし まっているので再出発できない。

種々の方法を、より広範囲で試せれば、数量化理論I類を適用して、各地でのベストな方法が計画できよう。
生産量(kgr/㎡)-外的基準
タネの種類、浸水の時期、田植えの時期、稲刈りの時期、日射量の大小、気温、気温差、植え付けの間隔、土地の種類、(肥料)
美味しさ(うまい、普通、まずい)を外的基準にすると、数量化理論II類を適用し、
要因は上と同様に与えられる。
他の農作物の議論も同様に出来る。

日本ではレンゲ草(Chinese Milk Vetch)を蒔いて育て、窒素を固定させて田んぼを維持する。そして所により麦を植えている。ここではクローバーを育て、その後そばを植えたい。 noodleにして食べるとよい。
クローバーは背が低く古株の成長の日射遮蔽をしないし、草刈の必要はなかろう。稲刈りと同時に蒔いておくとよいかもしれない。
田んぼは4月末から11月中旬までの6ヶ月以上休んでいる。

(B)稲刈りから米へ
4/6最初の稲刈り。日本製の片刃の鎌を使用。見事な切れ具合。ひと株を握り軽く切るだけでよかった。5束25株。しかし、まだ青い籾があったので稲刈り は延期。
4/13~16温室の隙間封じ。
4/1745束(225株)pukekoネット上。
4/187束(35株)。9/16浸水、4/18稲刈りの線が浮かぶ。
4/23pukeko。
4/254/17収穫の8束の脱穀。
螺旋にねじ切りしたステンレスの釘を、横に40本ちかくを1列に適当な間隔で、9mm厚のカスタムウッドの裏から打ち抜く。幅80cm位で長さは1m。両 側に高さ9cm位の衝立を打った。そこには楔の裏側を当て、そこに籾を集めて、箱に移動した。
4/2635束稲刈り。鳥達は第3区分に好んできているみたいだ。若くて甘いからか。

KWでのように1本植えをすると、40~90本近くの茎が出来、籾も80~100つく。茎も細く屋根を葺くとより繊細な仕上げになり そうだ。一方、3本植 えは、100~120の籾がつく。しかし茎は太いのでは(?)。さて来年はどう植えるか。

5/14/17刈り取り分は、2束を残し脱穀終了。
5/5第2区分の稲刈り開始。3列16束。青い粒もあり。6日26束、7日24束(この日近畿種2列もかる)。第2区分終了。
5/14脱穀。1時間に2束のペース。外に出て住宅と温室の間に吹く風を利用して、籾の選択。気流が乱れ一定の方向の風が必要。
5/15第3区分の稲刈り。6列。鳥の被害が大きく残る2列は放棄。
5/20第1区分の脱穀終了。
5/21稲藁を屋根葺きに残すための整理。続けて、22、24日も。仕事が重複している感じなので、脱穀と同時に整理はすべきだろう。
5/23温室に残った雑物を、Alellopathyの実験のためKikuyu島へ。実験開始。
Bulrush(稲もよく似て水を好む。共通成分があるかも知れぬ。)での成功例+日本での糠による除草の成功例。日射の遮蔽効果も忘れてはならない。
5/29米搗き開始。1.5lのジュースビン。鉄筋と竹の棒。扇風機で選り分け。コップ1杯の玄米に12時頃から夜10時までかかる。水に浸して翌日の炊 飯の準備。玄米1に水2。
5/30National Radioのインタービュー。昨夜浸しておいた玄米を炊いた。初めての炊飯だが、思ったより柔らかく、少しつき過ぎ(7分つき)たのと、新しいせいだろ う。
6/1850grの籾を3日がかりでつく。
6/2ビン1杯分にして詳細に見る。
6/33合の玄米を炊く。
6/43日に渡って、15時間ほどで710grの籾から490grの玄米が取れた。
内訳は、
籾710gr(100%)=玄米490gr(69%)+籾の残り80(11%)+くず米40gr(6%)+籾殻60gr(8%)+糠40gr(6%)
第1区分からの籾25kgrは、25,000x(490+80)/710(=0.80-後にもみすり機を使った前後で比べたがこの数字は正しかった)= 20,070.4と約20kgrに。2,070.4/613本=32.7gr/1株。32.7grx9株/0.81m2=363.8gr/m2。 1,000m2当たり364kgrとなり、福岡さんの540kgrに対して、67%となる。

田圃を200m2として、364grx200m2=72,800gr。72800gr/125gr=582.4日分。
582.4日/4=145.6日145.6/365=0.4約40%。500m2とすると、丁度1年分になるが、他の雑穀があるのでその分が、余剰分とな り、必要な人達に譲渡されたり、税金に当てられる。500m2の妥当性が云えそうだ。

6/73日に炊いた3合の米は5日目で終わった。1日125grも妥当な量と云えよう。

米の保存
籾を取って玄米にすると発芽するから、籾のままで保存するのがよい。害虫や病原菌に侵されにくくなる。湿度変化からも守られる。休眠させておく。
古くなるとヴィタミンB1が減少。低温貯蔵でそれを防ぐ。エチレンの発生を減少するのにもよい。10から15度、相対湿度70から80%。地下室が最適 だ。
果物の成熟、貯蔵にはエチレン(Ethylene)が関与。貯蔵法はエチレンを抑えること。温度を下げ、酸素濃度を低くし、CO2を多くしてやる。
米のエチレン発生は水分が多いと多く発生する。乾燥させて低温で保存。

(C)種々の副産物
縄、ぞうり、ほうき、屋根葺き、むしろ、保温ボックス(せいろ?)

(D)料理
玄米の栄養価
小麦とも成分がよく似ている。がこの辺りでは小麦は育ちにくい。輪作にはそばを考えている。穀類には、ヴィタミンA、D、Cが含まれていないので、その他 の食物で補わねばならない。
澱粉が多いから野菜と考えてはいけない。
精米すると、蛋白質、脂質、灰分とカルシウム、リン、鉄、カリウムなどの無機質やヴィタミンはうんと少なくなる。

炊き方(IndicaとJaponica)
ヨーロッパでは、中Amylose米を油で炒めた後、大量の水あるいは熱湯の中に入れて煮込
む。野菜、肉、魚介等を調理しておき、そこに米を入れる。この種の米に水あるいは煮汁
をたっぷり吸わせるのが特徴。
中国南部から東南アジアにかけて、アメリカや南アメリカ北部では、長粒の高Amylose米が多く分布する。米を炊いたとき粘りが出ない。パサパサ。大量 の水で煮て重湯を捨てていた。
炊き方で粘りが出るのではない。StickyRiceとパサパサ米。
日本で最近のように米を炊いて食べるようになったのは、15世紀はじめ。

Indicaはすぐ腹が空く。Japonicaは粘りによって腹持ちがよい。イランなどでは労働者階級が食べる安い米といわれる。し かし、この小麦より腹 持ちがよいという事が、日本人のダイエットにつながっているのかもしれない。良質のEssential aminoacid。
インドより西では餅は食べない。

(E)お米概論
米の栽培は、インドで4000年、中国で6000年も前にさかのぼる。

蛋白質の増加により味は低下。窒素肥料を多用して蛋白質を増やすと大きく低下。それは飯の粘りの低下、硬さの増加、澱粉を取り巻く蛋 白質が、炊飯時に澱粉 の給水、膨潤を妨げるといわれている。
人間に必要な20種のアミノ酸がバランスよく含まれている。
澱粉;Amylose(glucose-ブドウ糖-が直鎖状につながっている)とAmylopectin(木の枝のように枝分かれしている)の2種を含 む。餅米は後者のみで粘りを出す。
Amyloseの少ない米の方が味がよい(残りがAmylopectinで粘りを出す)。ユキヒカリはそれをねらって作られた。
開花後30日間でめいっぱいの澱粉を作る。
ミネラル;糠層に含まれる。
脂肪;胚芽や種皮に油脂が含まれている。リノール酸という脂肪酸が含まれていて、コレステロールを取り除く効果を持つ。
古くなると脂肪酸が増え、香り、味の低下が起こる。リポキシナーゼという酵素が酸化を進めている。

米粒の構造
玄米は2層の薄い皮(果皮と種皮)を被りその中に澱粉層がある。ぬかは、2層の薄皮と澱粉層と胚。薄い澱粉層がないと米は育たない。わずか 4~5%のヌカの中に生命の秘密がある。人間にも必要で、精白して取ってしまうと、ヴィタミンB1不足で脚気(Beriberi)、B2不足で口角炎や舌 炎、ナイアシン(B複合体)不足でペラグラ病に。
図を添わせる。

野生イネ
アジアで誕生したOryza sativaの栽培は、6000から7000年以上も前に中国北東部で始まる。ただしインド型。その後、IndicaとJaponicaの亜種。刈り取っ た後でも適当な温度と水が確保できれば、新しく茎を出すことが出来る。多年生(Perennial)
西アフリカ(ニジェール川からギニア海岸まで)で、紀元前1500年頃から少し遅れて栽培、オリザ.グラベリマ、Annual

米の生産は天気に左右される。

韓国の温帯性の米としての生産性の高さと品種改良の努力は必見のようだ。

(F)2003年を目指しての改良点
最長の草からの種。
60度での殺菌。
少し早めも意味があるか。この年、9/16~10/2に浸水。
いもち病や白葉枯病に強い品種「日本晴れ」の育成。草丈は短い。

出穂について
米がとれるかとれないかは、穂の出る時期(出穂期)が全ての鍵を握っている。夏のはじめのまだ涼しいときに穂が出ると、穂の籾(花)の中の花粉は低温のた め充実が悪くなったり、また、花が咲かなかったり、受精しなかったりで、冷害にかかることが多い。
秋のはじめに涼しくなってからやっと穂が出るようなイネでは、たとえ受精しても寒さのために胚のうの成長が抑えられるので、充実した種子は得られません。 これも冷害の1種です。
発芽してから収穫できるまでの生育期間が長すぎれば、冷害だけでなく、病気や虫の被害に遭う機会も多くなる。

夜の長さに感じる
感光性品種は、夏至の後、日が短くなったのを感じて穂を作る。しかし、高緯度地帯では栽培できない。従って感光性の弱いものが研究されている。
ユキヒカリも1月12日(夏至は12月23日頃)出穂だから感光性が弱いと云えよう。
イネが昼の長さを感じて穂を作るというのは、昼すなわち明るさの長さではなく、夜すなわち暗さの長さである。一定の時間以上の暗さが続くと、イネの身体の 中に穂を作る物質が蓄積し、葉を作っていた生長点に花芽すなわち穂を作り出す。昼は太陽の光を体いっぱい受けて光合成を行って栄養をため、体が出来ると、 夜には穂を作るために暗さを感じるということになる。
感光性の弱い品種は、夜の長さがどうであれ、体が一応出来上がると、穂を作り出す仕組みを持っている。この種は夜を感じない。ゆきひかりは高緯度。

交配
籾一つが、イネの花一つに対応。1つの胚珠と6個のやく。1つのやくに花粉が1000粒。胚珠の中の胚のう1つに対して6000粒ないし1万粒の花粉。雄 は寒さに弱い。冷害では種が出来ない。熱にも弱い(43度5分間)。他の雄を交配するのに利用。やくをピンセットでとって交配させる。乾燥にも弱い。バラ バラに花粉が散ると3分から5分で死ぬ。雌しべは、2日も3日も花粉を受け入れられる。

いもち病
いもち病の病原菌の胞子が稲の葉について発芽し、葉の組織に侵入して菌糸(Spawn)を蔓延させ、葉に紡錘形の病班を作る。病班が多くなると、葉が灰白 色となったり、赤茶けたりしてついには枯れてしまう。これが葉いもち。この様な葉の病班から胞子が飛んでうつって行く。菌;fungus
葉が増える生長期にいもち病には殆どかからなかった場合でも、次には穂が危険にさらされる。穂や籾の付け根に菌糸が入り込んで、細胞を殺す。そこから上は 下からの栄養が得られない。穂いもち。
複数の品種を植えることも考えられる。

(III)2002年収穫の米の生育、収穫、精米など。2002年6月29日
生育した米の種類
KW2-1;Kaiwaka産の2世で9月9日浸水。9/18苗床に播種。
KW2-2;同上で9月16日浸水。9/25苗床に播種。
粘土2-1(CB2-1);粘土団子2世で9月9日浸水。9/18プランターに播種。
粘土2-1(CB2-2);同上で9月16日浸水。9/25プランターに播種。
長尺2-1(LG2-1);草丈の長い稲からの種で、9月9日浸水。9/18苗床に播種。
長尺2-2(LG2-2);同上で9月16日浸水。苗床に9/25播種。
近畿2-1(KK2-1);近畿種の2世で、9月9日浸水。9/18プランターに播種。
近畿2-2(KK2-2);同上で、9月16日浸水。9/25プランターに播種。

田植え
古株は東より、17,16,19株のこっていた。
KW2-1西の奥から5本+6列、131株植える。11/27
KW2-2古株の隣から8列+1列(1本植え)225株植える。11/27
CB2-1上記の隣から4列+1列(1本植え)133株植える。11/28
CB2-2その隣に5列+1列(1本植え)171株植える。11/28
LG2-1その東隣に10列、288株植える。11/28
LG2-25列+1列(1本植え)178株。11/29
KK2-1長尺の隣から4列、117本、11/29田植え。
KK2-24列、95本、11/29。
LG2-1残り分を東端、4列63株植える。さらに西端に35株植えた。11/29。

稲刈り
4/18古株より始める。まだ青い穂もあり育ち方がまちまちだ。姿のよいものの穂の数は42、40、26と少ないが、生育不良と思えるものは、 90、81、79と穂の数が非常に多い。前者について一つの穂につく米の数を数えたが、三個所での10本の平均値が33、41、40粒と少なかった。草丈 も35cmから45cmと低かった。
成長不良と思われた株ではどんどん成長しており、草丈が伸びる分が種の数にまわった感じだ。病気っぽいのもあった。その後育たなかったのもあり、惨たんた る出来ばえだった。
これは退化しているといえよう。
来年もこのまま残して観察したい。真ん中の列は全部収穫してから、穂の先だけ切って米を取った。両側二列は株の所から切ったが、真ん中はその様に残す。

KW2-1の収穫。3株ランダムにサンプリング。
穂の数 27 28 21
籾の数(10 本の平均 )81 83 70---少ない
草丈 70 65 50
各株に2,3本背の低い穂があった。種モミとして3束別に数える。
4/19背の高い草は、LG2-2、CB2-2と9/16日浸水分が多い様だ。奥まった所に昨年の株から生えたのがあるが、元気よく育っていた。株間の距 離は30cm以上離れており、栄養が十分だったといえるかもしれない。退化と一概に言えないのかもしれない。
KW2-1の収穫。21束x5株=105株
4/23KW2-1の縁に残していた残り-少し青みのある穂もあった(日照の加減か)-を収穫。5株を取り出して穂の数を数える。139穂/5株=27穂 /1株。
籾の数(5本サンプリング);441個/5本=88粒/1本。
KW2-2の収穫に移る。9列の様子には分布がある。第9列目(1本植え)やその近くのは草丈が高く育っている。
LGを中心に一定の高さで茎をかじりきって穂を上手に食べている。新しい動物による害だ。ショックを受ける。夜はネットを上げて野性化した猫の襲来を期待 した。しかし、朝は早起きをして雀が来る前に閉めねばならぬ。

第6列より5株。
穂の数30、 36、 43、 36、 33
籾の数
(5本の平均) 74、 72、 75、 65、 61 -少ない
草丈(cm)55、 55、 60、 50、 55

この日最後に、LG2-2の第1列の29株を収穫、温室に収容。
4/25温室の縄のロープに吊るす。
4/26ヴィデオに撮る。イナゴが少し増えていた。3束脱穀。CB2-1収穫。
5/01CB2-1の2本植えと1本植えの茎の数の比較。
98本/5株=20本/株 140本/5株=28本/株
111本/5株=22本/株
籾の数の比較
95粒 77粒
2本植えの方が、日本の収穫に近い。
草丈の高い籾の数の多いものからCB2-1の種もみを取る。
5/02CB2-2束90株収穫。
5/03古株の分から脱穀を始める。空籾多し(40%もありそう)。草丈は低い上に茎は細い。
2列36株分で1.0kgr。1株あたり、27.8gr/株。
KW2-1も脱穀選別終了。4.5kgr。124株+7株(1本植え)=131株。1株あたり、34.4gr/株。
5/04KW2-2脱穀始める。
CB2-2の稲刈り済み。170株+2株(ウチ90株は5/02に済み)。
5/05縄のロープを銅線に代える。CB2-2までを吊った。
5/06銅線張り終える。
LG2-1稲刈り終了。種もみをどう採るか。倒伏の起こっていないもの-根元が曲がっていない-で多い籾と少ない籾の2種を採る。前者は食料用、後者は茅 葺き用。
この領域では、動物の影響をかなり受けていた。1株につき7,8本食いちぎられたのも10数株あった。切られた茎は15から20cm位で、Water ratと推定される。池の側のネットの下にトンネルを掘っていた。
5/11CB, LGでは9/16播種の分の草丈が長かった。表土の薄い個所(粘土層の厚い所)、すなわち肥料の少ない所の草丈は低かった。

今年の冷夏をどう解釈するか。
5/13LG2-2の稲刈り。最長グループ2株。
穂の数 26、 26
籾の数
(5本の平均) 109、110---空籾はどう数えたか
モミの数は多くても軽かった事を示す。生育期間をより長くすると重くなるであろう。
5/15KK2-1 比較的よい株。233本。籾の数の平均。93。
KK2-2 154本。籾の数の平均。67。
5/16KK2-2の残していた3株稲刈りの後、LG2-1の苗の残りを東端と西端に植えていたが、東端の分の稲刈り。隣のKK2-2と大して変わらず。 やはり栄養が足りない様だ。
午後から西端に移り、先ずSelf-seededの7株、そしてLG2-1を刈った。隣のKW2-1と大して変わらず。栄養が足らない様だ。両側で長尺2 -1が同様に貧疎なのは、肥料が足りない事を明らかに示していよう。
田んぼの整地後に生えていた分も混ぜて収穫。
古株の真ん中の分は、穂のみバケツに切り取った。
これで全ての稲刈りを終了。
5/17KW2-2脱穀終了。10.5kgr。225株。1株あたりは、46.7gr/株。
5/22CB2-1の脱穀開始。田んぼで各区分の株数を数えた。
5/26CB2-1は草丈もありどっしりと重い。
4束の重さを比較;760gr、820gr、980gr(種モミに決定)、770gr
回りの背の低い茎も少ない。

全種類の一株あたりの籾の重さ比べを表7-8-1に行う。

2003年7月2日記入


表7-8-1 2002年の収穫量
(古株3列の平均値は、(26.4x16+27.8x36)/(16+36)=27.4g/株)

5/27今年の藁は、昨年よりも少し柔らかい感じ。
CB2-1の脱穀終了し、収穫量は10.8kgr。81.2gr/株。他所のグループから少し取り込んだ感じだとメモにある。
5/28CB2-2脱穀始める。空籾も目立つがこれまでのより元気がよい。
一束の重zさ;1050gr(長尺用の種モミ)、880gr、800gr、660gr、940gr(収穫用)
5/30CB2-2の藁や空籾を田んぼに敷く。CB2-24束のこし脱穀終了。
6/01CB2-2脱穀終了。
午後、LG2-1の脱穀へ。
重量比較;900gr(長尺用)、1020gr、800gr、870gr(収穫用-色艶がよい)、900gr
以上種モミに選んだ2束は倒伏も少なかった。脱穀は1束のみ。
6/2と6/3LG2-1の脱穀。空籾はCB2-2よりは少ないが少しあった。各束は太かった。
6/5LG2-1の続き。草丈長い上に倒伏が少なかった。
6/6LG2-1脱穀済み。株の数も多く、茅葺き用藁の選択に時間がかかったようだ。収穫量;18.7kgr。64.9gr/株。
6/7LG2-1の残りを終了。LG2-2の脱穀へ。
1束の重量測定;1060gr、1120gr(色艶もよく、長尺用+収穫用)、1050gr、940gr、1050gr(長尺用)。
もう1株別の部分から種用に採る。
6/8脱穀続き。
6/10LG2-2脱穀終了。12kgr(4束を種用に)。67.4gr/株。
籾710grから玄米570gr(490+80)。後者は前者の80%。
この日までの収穫量合計;67.6kgr、株の総数;1162株
(0.3mx0.3m)x1162=104.58m2
なお、全株数1472.総面積;132.5m2。
67.6kgrx0.8/104.6x1000=517.0kgr。福岡さん540kgに対して96%。
この日の印象;来年の計画として田植えの日と肥料。

最後のKK2-2脱穀を終わっての全収穫量について
収穫量合計:79.9kgr、株の総数:1495本、総面積:134.55m2
1反にたいする収穫量:79.9kgrx0.8/134.55x1000=475.1kgr
福岡さんとの対比:475.1/540=88%
6/11KK2-1重量測定;570kgr、600gr、720gr(種モミ用)、680gr、640gr
粘土質で養分が少なかったのも事実だ。
6/12KK2-1脱穀終了。重量;4.3kgr。36.8gr/株。
6/13東端LG2-1脱穀始める。2束程よいのがあった。910gr、790gr(草丈も普通)。
他の粘土質での5束の重量は;530gr、580gr、500gr、520gr、460gr(草丈は全て低い)
端の方では、410gr、260gr、320grと貧しいものも多くあった。
収穫量;2.5kgr。39.7gr/株。LG2-1西の部分も脱穀はした。
6/14西奥のLG2-1の選別。重量;1.7kgrの収穫。48.6gr/株。
7本のSelf-seededの重量;250gr=0.25kgr=0.3kgr。35.7gr/株。
古株中央摘み取り分;420gr=0.42kgr=0.4kgr。26.4gr/株。
KK2-2
収穫量:4.6kgr-1.5kgr=3.1kgr、株数;95本。32.6gr/株

収穫量の合計
1.0+4.5+10.5+10.8+10.1+18.7+12.0+4.3+2.5+1.7+0.4+0.3+3.1=79.9kgr
Brown Riceとして、79.9kgrx0.8=63.9kgr
1俵(40升)は60kgrなので、42.6升すなわち、426合。426合/365日=1.17合/日

最後のKK2-1脱穀を終わっての全収穫量について
収穫量合計:79.9kg、株の総数:1495本、総面積:134.55m2
1反に対する収穫量:79.9kgx0.8/134.55x1000=475.1kg
福岡さんとの対比:475.1/540=88%
最後のほうではRatに食べられたのでそれを加味すると90%くらいになっていると思う。

2002年8月3日(土)の米の会へのデータ(2002年秋収穫分について)
2002年7月21日(日)種モミの脱穀



表7 -8-2 2002年収穫のもみなどの比較

2002年7月21日脱穀の結果の考察
後からまいた方に空籾が多かった。すなわち成長するのにまだ日にちが必要だったという事。9月1日播種は順当といえよう。
視察や束の重さを計っての選択だったが、束の重さは草の重さに大きく影響され、すなわち草の乾燥状態に左右されていたので、今回の結果を合わせて種を選択 すべきであろう。
草丈用には、8.9.がよさそうだ。
重さの順位は先の1株あたりの重さ比べとよく似ているといえよう。
種として興味のあるもの
3.4.12.16
KW2-1は、一番早く黄色くなったグループで、他のグループでは最後までこの様にならず、緑色が多く混ざっていた。稲藁も綺麗で、緑色が最も抜けてお り、いもち病と疑っている茶色の茎も殆どなかった。明らかに空籾も少なそうだった。ほんの一日のずれでこれが起こったと結論してよさそうだ。
KW2-1,2以外では、空籾と種の比は、-1が5.0%以下。-2は5.0%以上とほぼ別れた。KW2-1と2-2についても両者とも他に比べ空籾が少 なく、しかし、-2の方が若干だが多かった。

8月25日(日)John Finleysonの籾の計測結果
上の表の最右欄(50粒の重さ)に記入した。KW2-1が最も重かったのが興味を引いた。あの黄色く色づいたのがその背景にありそうだ。
空籾は土に混ぜると1週間以上有毒ガスを発生する。抑制作用を発揮する。これがAlleropacyといわれるもののようだ。
それを利用して、一旦成長した苗を籾入りの苗箱で育てると、雑草を抑制しつつうまく育てられる。
以上Johnとの会話も含めてのメモ。

しかし、米の籾固有のものかどうか。それがどの草にも作用するのか。あるいは米の苗には作用しないのか。このあたり除草剤、ことに Kikuyu退治の手法 の糸口になりそうだ。

(IV)2003年5月収穫の稲の記録
浸水と播種
早い分(Early-種類の頭にEをつける)
2002年9月5日 4種(KW2-1、KK2-1、LG2-1、CB2-1-重かった種の順番)浸水。
9月12日播種。
遅い分(Late-種類の頭にLをつける)
9月13日4種 浸水。2002年9月9日の早い浸水(-1)に対応と考えたが、それが両者の中間だった。
9月20日播種。
苗床は、田んぼのコーナーと、丘のすその地面と、これまでの箱の中の3個所にまいた。それぞれにバードネットをかぶせた。
気温が余り上がらないので、KK2-1のみ遅い分は9月29日浸水。

苗床と田植え
苗床について
丘の上の箱は成長が遅かった。陰が多く日射量不足と思われる。しかし、砂を多く含むので、根は分けやすかった。
ふもとの土の中での苗は、芽を出したものは田植えまで持ちこたえ、草丈では箱のより少しだけ短い程度だった。根の張りは短く弱かった。毛様の根が生えてい て土から分離するのが難しく、移植時は困難を感じた。しかし、中には古株から株分けした苗と同様に緑色が深く、北東端最後の列に、LKK2- Gardenを8本、LCG2-Gardenを5本植えた。後から播いた分の元気がよかったのは面白かった。しかし、大まかに言って元気な苗はむしろ後が よくない。
1週間前に播種したのが総体的に昨年並に比べて成長が早かったが、後者も後で追いかけてきた。
一見した所、EKK2とELG2の草と根がもっとも元気だった。しかし、ECB2の方が収量は多く、結果的な収穫量には関係していなかった。

古株の根分けの苗は緑も濃く、元気に育っている。
古株は緑が濃いが密集しており、しかし、はじめの勢いはよい。
各苗床における1週間の浸水時期の相違は、大きく影響しなかったようだ。遅れたものも田植えの頃には早かったものに近かった。

田植えの日程
1/12 ORS 10列, EKW2P-14列、EKW2P-21列、EKW2G-11列、EKW2B-11列、EKK2P-12列、
2/12 EKK2P-22列、EKK2G-11列、 EKK2B-11列、ELG2P-13列、ELG2P-21列、ELG2G-11列、 ELG2B-11列
4/12 ECB2P-13列、 ECB2P-21列、ECB2B-11列、EKK2P-24列(あまり)
6/12LKW2P-12列、LKW2P-21列、 LKW2B-11列、LKK2P-12列、 LKK2P-21列
7/12LKK2B-11列、LLG2P-12列
8/12LLG2P-21列、 LLG2B-12列、LCB2P-12列、 LCB2P-21列、LCB2B-11列、 ELG2P-22列(あまり)、 LKK2G-28株+ LLG2G-25株(あまり)
9/12ORS 1列。

田んぼの端の苗床は一番よく成長した。難点は粘土質で根分けがし難かった事だ。丘の上の箱の土を運んで土手をしっかりさせて来年の苗 床にしたい。

早い出穂と花が咲き始めたので一度水を抜いた。それが出穂を異常に促進させ、返って混乱をもたらしたようだ。

2003年4月19日水の吸収を止めたようだ。しかし、今年はネズミ達の攻撃に備えて水は張ったままにした。

退化によって何が起こったか。
収量の減少ならそれでもよい。もっとその地の事を印画した強い米に帰っていっているのではないか。
退化とは何か。もとにかえるとは何か。退化で何が起こるのか。植物は生きようとしているはずだ。次の世代にそれを残そうとする本能があるはずだ。その地で むしろその条件を印画して先代の種に帰る事はよい事に違いない。順応というべきだ。
収量の大小は人間の欲だ。強い昔に帰りながら、その地で順応した結果が、その地の人々の食物になるべきだ。
もとに戻るのではなく、彼ら自身でよりよい生き方を作ろうとしている過程ではないか。人間も他の地に行くと同じことをしているはずだ。

以下の表7-8-3に示すように、ORの一株あたりの収量(W/S)は、2002年は26.9、2003年が40.0と多かった。な お、2003年は株数 が減って一株あたりの養分が多くなったといえるかも。
標中2002年度の収穫のW/S、すなわち1株あたりの収穫量について、そのグループの値を参照するべく記入している。



表7 -8-3 2003年5月収穫量比較

ORSの収量は、他に比べて必ずしも多くはないが、ここは東の端と同様粘土質で、養分が少なかった所であ る。肥料を多くやるとともに、来年は2本植えおよ び3本植えを試みるが、どの株を残すか考えねばならない。
真ん中辺りのW/Sが大になる傾向があり、養分の大小を反映していよう。
2本植えが明らかにより多くの収穫量(W/S)を与えている(W/Bも2本植えが多い)。3本植えではどうなるか。ORSでぜひ試したい。
2002年のLG2-1とCB2-1は傑出して収量が多い。草を多く燃やしたり堆肥が多い所だったという記憶がある。その年における結果も今年との比較に おいても、結局養分が多いほど収量が上がるといっているようだ。-これを検討するためにも、田んぼ内の植えた列の位置を両者について比べた(図参照)。

まとめ
来年は肥料を全体によく混ぜる。灰を多く撒く(昨年の方がはるかに大量に撒いた-隣から木灰を多くもらった)。タンクからの微量元素も播く。酸性化した土 には石灰も撒くべきだろう。
2本植えが、W/S,W/Bにおいて勝る。
ORS, OR, KW2の一部が黄色く色づき、本土の稲とよく似ていた。それは交配の1代前に返ったからか?ただし、昨年もこの辺りが少し黄色くなっていたような記憶があ る。そのことは早く田植えをした事がその結果を作ったといえるのかもしれない。
草丈が長く、見かけがすくすくと育ったものが、必ずしも多収穫ではない。フィリピンで画期的な多収穫が得られた米の草丈は低かったという。
図の様子を見れば、両年とも真ん中辺りの収量が多く、両端は少ない。それぞれにおいて今年の収穫が少ないと言う事は、天候のせいだったと言えよう。川から の給水は端の方からしたが、その回りの水の温度は低く、それによって成長が遅れたこともある。

来年の予定。
ELG2P-2、ECB2P-2、LKW2P-2、EKW2P-2は、苗をとるために田んぼに残しておく。KW2P-2でLとEがあるのは、自然に出来る 苗に両者の浸水時期がどの様に繁栄されるかを見るためだ。
それらの種類で収穫したものを種として使う。浸水の時期は昨年より少し早めてみたい。すなわち、9月1日頃。
昨年のCB2-1、LG2-1の種がまだ残っているので、それらも9月1日頃浸水したい。

全収量が、47.31kgと少なかったのは、天候が悪く、晴天が少なく気温が上がらなかったことによる。

(V)2003年9月播種の稲の収穫の記録

9月3日浸水
9月13日播種
田んぼの西北隅の苗床に以下の6種を播種。各種の下の日付は、田植えの日を示す。

種の種類EKW2 P-2ECB2 P-2CB2-1
田植の日1,2,3,4/12 30/11,3/1230/11

種の種類LKW2 P-2ELG2 P-2LG2-1
田植の日29/11, 3/1230/11,3/121/12

種の選択は、2003年、2002年分について各列で収穫量を比較し、先ず2003年分から4種を選択。しかし、2002年の2種が それらより一株分の収 量が多かったので、2種追加選択。すなわち、ふるい種からである。
EKW2 P-2とは、昨年早め播種したKW2という区分から取れた種で、P-2とは2本植えしたものである。昨年の結論から2本植えの方が1本植えより多くの収穫 があったからである。LKW2 P-2は、それよりも遅く播種したもの、ECB2 P-2は、粘土団子種CB2-1の早播きからの種、ELG2 P-2は、長尺ものの種LG2-1の早播きからの種である。そして、CB2-1は粘土団子種の昨年度の残っていた種、LG2-1も昨年度のものである。

11月29日 沙保と4列、LKW2の古株からの苗SLKW2を2列、苗床からLKW2を2列。
ここに、Sとは昨年の古株からとった苗をさす。
11月30日 3時頃まで沙保と、それ以降は一人で11列。
SECB22列
ECB2 3列
CB2-1 2列
SELG22列
ELG2 2列
12月1日 あきお君40分手伝い。ほぼ1人で6列。
LG2-1 2列
SEKW22列
EKW2 2列
Sシリーズの葉は深緑で立派だが、根はお粗末だ。茎1本それぞれは少しより太く、短かった。苗床との違いはこの辺りにありそう。苗の分別も難しく、苗床の 方が楽だった。
12月2日一人で9列。
SSOR3列 3年前からの古株からの苗(古株をまたいで3列)
SORS2列 古株をまたいで-多くの苗とれず。
EKW24列
古株から苗をとる作業は、古い根を取り去る作業があり少し手間がかかる。
12月3日 1人で13列。
12月4日 1人で、EKW2 2列-EKW2の分布で肥沃度を比べる-と奥の残り3列はECB2。
田植え終了。

2002年の田植え時の印象では、S(古株からの苗)の方が根をよく張っており、苗代の苗の方が成長が遅れていた。しかし、2003 年にはそれが逆転した 感じだ。

2004年1月10日(土)
Kikuyuの下から集めた堆肥、灰、石灰を混ぜたものを播いた。藻や緑の小さい葉の水草を抜く。
古株から分離した草の方が元気がよい。多年生への期待を捨ててはならない。
両側の給水個所は水が冷たく、その回りの成長が遅れていた。給水個所を内側に移動した。
温室内の第1池の米が10日以上も前から穂をつけ、今日現在で穂が少し垂れ始めている。

2月16日 強風のため倒伏が始まったので、田んぼを枯らす。3月4日現在まだ水を入れていない。結局このまま稲刈りまで枯らしたままだった。

2004年4月15日稲刈りをはじめた。その時のメモ
水を溜めていると、成長が遅くなるようだ。温室の第1池の稲は早くから実をつけ始めていたのに、まだ青々した実がある。
水を抜いたために早くなった。水を抜くと一時に実りが来るようだ。
日本では出穂が9月10日頃(立春より210日)(=3月10日頃―――日記で確認の事)で、稲刈りが10月10日頃(4月10日)からという。
水を抜いた方が稲刈りはしやすい。地面に稲を置いて稲刈りが出来る。
今年はRatにはやられなかった。Mouseも多くは来なかったようだ。
総体的にKW2種の草丈が長い。そして袋状の葉の中に包まれた穂が殆ど見られなかった。成長の区切りがついたものと思われる。

4月22日脱穀始める。稲刈り後、1週間だ。しっかり束を縄で結んでいたが、釣り下げる銅線が細く、乾燥で空隙が出来するすると抜け 落ち始めた。これは毎 年の事で太い棒にかける日本での様子と異なるためと考えられる。
KW2種では倒伏が少なかったようだ。穂先の重さが軽かったというより、下の方の茎がしっかりしており、さやがはずしやすく、根がしっかりしていたと思わ れる。
西の端の粘土質の方で倒伏が多かった。
4月24日脱穀時に気がついたのは、3/12田植えで20/4稲刈りのLKW2については、他と全く異なり、青々としたままの穂が40%もある株が4個以 上あった。全体に青い穂が多い。何故ここに局所的に起こるのか。草丈は他のKW2並みだが、未熟の穂がとくに多い。これからも育つという雰囲気でもない。 昨年の浸水がLateという借金を背負っているのか。結果的にまともに育ったという穂はなかった。まだもう少し早めに浸水すべきかもしれない。
そして、3/12田植え、20/4稲刈りのELG2についても似た様子が伺えたので、東端の土の肥え具合が悪い事も影響しているようだ。
東西端の施肥による土壌改良と、浸水、播種をもう少し早める必要がありそうだ。



表7 -8-4 2004年の米の収穫結果

今年の収穫量の合計
77.74kg
135―4(苗床)=131平方米
77.74 x 0.8 /131 x 1000=474.75kg
471.57kg / 540kg(福岡) = 0.879-------88%

考察
1株あたりの収穫量を図7-8-1にまとめた。



図7 -8-1 各列における一株あたりの収穫量など
図7-8-2には、草丈と収穫量の比較を示す。古株は草丈が低くてもよい収 量を得ている。それらをのぞいた稲についてみれば、草丈が長いほど収量が上がっ ているようだ。



図7-8-2 草丈と一株あたりの収穫量の相関

ほぼ隣合った列に植えた古株から切り取った苗(Sシリーズ)と苗床からの苗の収穫量を、前者/後者の比を 取ってくらべると、
SELG2とELG2(26列対28列)で、1.29
SLKW2とLKW2(41列対42列)で、1.12
SECB2とECB2(33列対37列)で、1.06
SEKW2とEKW2(20列対22列)で、1.01
SEKW2とEKW2 (20列対17列)で、0.81
となった。多くの場合で若干Sシリーズが多収であった。苗になる前の日射量が多いほうがうまく成長するといえないだろうか。このことは、多年草生利用での 育成がよりよく成長することの根拠にもなっているようにも思う。
1株あたりの収量は、昨年の古株からの収量が抜群に多い(表7-8-4、図7-8-1)。今後さらに観察する必要はあるが、この結果はより長く日射量を得 て育ったことも影響していよう。したがって来期は、より早く浸水すること、そして、肥料を多く与えることで増収は図れよう。全部をそのままで次の年も稲を 育てられればすばらしいが。
3年越しの古株(OR)においては、養分の少ないところでの生育であり、初年は少量であったが、各年増加しており、今年は新株の収穫量と同等だ(図7-8 -1)。茎の数がそれら(OR)においてはあまり多くなかったようだ。3年越しについては、それまでの茎数が多かった。このことから、古株からの茎の数を 20本くらいに制約してやると、安定した増収が得られるかもしれない。
17-18列は土が肥えていない。SKW2の比較においてもいえるし、古株ORの収量が少ないことからもいえる(表7-8-4、図7-8-1)。
KW2系が比較的収量が多く、草丈も高い。SELG2とSECB2は草丈は低かったが、若干ではあるがKW2種に比べて収量が多い。来年の種もみ候補とな ろう。また、KW2種の73cmを超える草丈の3種、SLKW2、SEKW2、EKW2は、70gr/1株を超えており、草丈と収量の両方を目指した種と して面白い(表7-8-4、図7-8-1)。
ここで注意をしておきたいことは、これらの種もみ候補がSグループであるということだ。より多くの日射を得たと考えられる。
草丈と収量は、1年目の苗に関しては、ほぼ+の相関を示している。KW2とともにSグループも同様の傾向を持つ(図7-8-2)。
東西端の肥料不足は昨年と変わらず、KW2種といえども成長は悪かった(図7-8-1)。
昨年の48kgへの落ち込みは、低温(春、夏ともに)だったとともに、水を最後まで満たしていたことも原因であろう。
同じ場所で同じ種を使うと退化が起こるが、同じ種でも他の場所で育ったものであれば、それを同じ場所で続けて育てられる。各地間での協力が必要である。
苗から育てるならば、1年前(古い)の種の苗からの収穫量は非常に少ない。新しい種を使わねばならない(表7-8-4)。
苗床の苗と古株(Sグループ)からの苗を比べると、後者のほうが若干多めに取れたようだ。これはより早くから日光を吸収していたためと思われる。より早く 種まきをすべき(例えば、8月25日頃)。苗床に植えて苗を作るほうが、古株から苗を分離する手間よりも、水の中でより簡単に分けられるので、早く蒔くべ きだ。
来期へ向けての一つの候補として、全面をそのままにして育てる。多年草性の積極利用だ。アジア人は米に頼って生き延びて来た。アジア南部では周りに自然に 生えていたからだと思う。
しかし、少し冒険なので苗床からの栽培もし、古株で多く取れた株からの米を種籾にする。気候順応が優れていると思われる。
米の栄養も検討すべき。KW2種で草丈が高いということは、もみに入るべき養分が減っているのではないか。
扇風機で選別を行うとき工夫が必要である。その1例を図7-8-3に示す。



図7 -8-3 選別時の受け箱の設計

吉村さん(米つくりの長年の経験者)への質問
緑色をした藻はよいものか。
茎の一部が茶色くなるのは病気か。
白っぽい穂も見つけた。後日焼却したが、これも病気の一種か。
カメムシ、イナゴの撃退法。
1本植え、2本植えと収量は上がったが、3本植えではどうか。
乾燥の時期と期間。
脱穀した後のモミの重さに水分含有量は大きく影響するか。1週間の乾燥と2週間のそれとでは米の重さは変わるか。
もみがらを田んぼに返してやるとどうなるか。土壌改良にならないか。ぬかが除草にきいたという。

メモ若干
茅葺き用の稲わらは、よく乾かしてから屋内に取り込むこと。後でカビが生える。
多変量解析の要因
種の種類、浸水の時期、田植えの時期、稲刈りの時期、日射量の大小、気温、気温差、植え付けの間隔、肥料、土の種類等など。

窒素肥料を多く与えすぎると、蛋白質を増やすことになり、味は大きく低下するといわれる。飯の粘りが低下し、硬さが増加し、澱粉を取 り巻く蛋白質が炊飯時 に澱粉の給水、膨潤を妨げるといわれる。すなわち窒素肥料を与えるときも程度ものということだ。

開花後30日間で目いっぱいの澱粉を作る。

玄米(胚芽や種皮)に油脂が含まれている。リノール酸(LinoleicAcid)という不飽和脂肪酸が含まれていて、血中コレスチ ロールと結合して乳 化。排泄しやすくする作用を持つ。

韓国の米の研究も必要。北海道近辺で新しい種が開発されている。

退化させながらもその地の条件を印画させ、その地の植物に育てて行くことも大切だと思う。人間も他の地に行くと同じことをしているの ではないか。しかし、 人間が一定のところに育った過去を変えるには時間が長くかかろう。その地の地味、気候、で育ってきたのだから。例えば、羊に対するセレンだ。

(VI)2004年9月播種、2005年4月収穫の記録
2005年6月8日
2004年8月24日次の種の選択をして浸水。
LKW2p-2
ELG2P-2
この2種は古株で最も収穫量大。過去がより多く印画されていよう。
EKW2p-2
LKW2p-2との比較のため。
SLKW2 (LKW2p-2との比較)
Sの故に過去をより多く印画していよう。多収で背が低かった。
SELG2(ELG2p-2との比較)
SECB2
この2種は背が低いが多収だった。
以上は15日後の9月7日苗床に播種。しかし、翌8日霜にあう。水を張っていなかった。

SELG2(Late)
9月3日浸水。11日してからの9月14日播種。

今年度は種について、多くの場合分けで種類を増やすのではなく、この地に馴染んで多収の種を選んで、施肥を十分してやればこの地での ベストになっているは ず。

今年は新しい勢力のある雑草と遭遇。すなわちクーチだ。これについてはさらに述べる。
9月9日(木)、ネットのスソに30cm幅のプラスチックを張ネットをペグで押さえるようにした。
12月1日(水)、草削り終了。
12月3日(金)、堆肥撒き。
12月4(土)~5(日)にかけて、苗の分離。温室の第1池で育っていた最も背の高いのも苗にした。
12月6日(月)、夕方7時までかかって田植え終了。
12月20日(月)、第1回田の草取り4,5日かかって終了。
12月25日(土)、デッドマンをKiwitahに変えたので、ネットがぴんと張れるようになった。
12月31日、2回目の田の草取りをはじめ、2005年1月2日終了とともに第3回の草取りを始める。
2005年1月11日(火)、田んぼと苗床にも出穂。温室ではこれより10日くらい前から出穂していた。
1月13日(木)、第3回の草取り終了。

4月19日から21日にかけて、先ず古株からしっかりもたげているのを確認してから稲刈り。
26日と27日にかけて新株の稲刈り。古株から1週間遅れてやったがまだ青い穂が混ざっていた。見るからにプアーだった。秋の晴天続きで大分回復していた が、霜、春夏の低温の影響は明らかだった。
4月29日脱穀を始める。つるすのに銅線から1cm足らずのロープに変えたが、すり落ちることはほとんどなかった。また、田んぼではかまなどもそのままに 縛ったのでこれがすり落ちるのをとめていたようだ。
5月6日古株の脱穀終了。
5月8日新株の脱穀をはじめ、13日終了。
温室から根分けした苗からのは貧素に見えたが、その後の計量でも収量は少なかった。LKW2は他と違って特徴がありそうだ。収量も草丈も大だ。

計量した結果は表7-8-5に示す。大まかに言って新株の収量ははるかに少なく、古株については2年目3年目と増えてゆき、4年目は それらより少し少なく なったが、新株よりはるかに収量は大。
古株618株から42.3kg。1株あたり68.5g/1株。
新株547株から23.5kg。1株あたり43.0g/1株。
両者で平均すると、1165株から65.8kgで、1株あたり56.5g/1株。
合計の収穫量:65.8kg、約66kg。

古株にBiannual性が出てきている。4年目の最も古い株についてみると、1株あたり、
27.8g、40.0g、71.1g、そして今年の66.6g。はじめの2年はAcclimatization、その後は安定し、Biannual性を示 す。
このところの収穫量は、60kg、80kg、48kg、78kg、そして今年の66kgとBiannual性が出ている。
福岡さんの540kgとの比較。
56.5g/0.09x1000/1000=628kg/1000m2.玄米換算;502.4kg
502.4kg/540kg=0.93
すべてが古株とすると、
68.5g/0.09x1000/1000=761kg/1000m2.玄米換算;609kg
609/540=1.13
実際の1株あたりの面積は、131m2/1165=0.112、0.112/0.09=1.24倍広く使っている。同じ面積を対称に福岡さんのと比べる と、1.13/1.24=0.91となる。
131m2に満遍なく30cm間隔に植えるとし、0.09m2で割ると、1455本になり、68.5x1455=99.3kg古株から取れる可能性はあ る。これは先にも計算したように、福岡さんの113%にあたる。

2005年4月の収穫



表7 -8-5 2005年の収穫



図7 -8-4 2005年の収穫

今年の収穫量は、表7-8-5および図7-8-4に示すとおりである。新株は・、古株の2年目の収穫は○、 3年目は□、4年目は●で、それぞれ示してあ る。
明らかなように、新株よりも古株の方が、圧倒的に収穫量が上がっている。そして、年を追うに連れて収穫量が上がり、最も古い株が4年目をむかえたところで 少し減少した。勿論新株よりも多収である。このことは次のように解釈できよう。
田植えをしてから最初の4年はその地の気候に順応する期間。その後はBiannualの性質を示す。すなわち収穫量が安定して2年毎の周期を示す。
適当な時期に休耕田にしてやらなければならないと想像されるが、この田んぼでは最も古い株がパイロットになろう。すなわちこれの収量が落ち始めると、次の 年は新株に置き換えてやり、その結果で次の年は休むべきかもしれない。
季節順応の期間においては、各株はより大きくなっている。
何故これまでこの様な育て方をしてこなかったのか。日本の冬が厳しすぎて古株がうまく持ちこたえられなかったのか。すなわち、NZのKWだからできるの か。
いずれにしても米はNZで作れるということ。多年生利用の育て方で少なくとも田植えで得られると同等以上の収量が得られる。

古株の収穫量42.34kg。株数618本。1本あたりの収穫量68.5g/1株
新株の収穫量23.50kg。株数547本。1本あたりの収穫量43.0g/1株
全収穫量65.84kg。全株数1165本。1本あたりの収穫量56.5g/1株

福岡さんとの比較
0.3x0.3=0.09m2あたり56.5gとすると、1反(約992m2)あたり
56.5g/0.09x992/1000g=622.8(kg/1反)
もみすり後は、622.8x0.8=498.2kg。福岡さんとの対比では、498.2/540=0.92
もし、ここで新株が古株に置き換わっていたとすると、0.09m2あたり68.5gとなり、
68.5g/0.09x992/1000g=755kg
玄米換算755x0.8=604kg。福岡さんとの比較は、604/540=1.12
とよい比較になる。
しかし、実際の田んぼの利用の仕方は、131m2あたり1165株と1株あたり131m2/1165=0.112m2使っている。特に今年は、ふちの株を 抜いたり、中のほうの株で育たなかったのもあったので、面積的な効率は落ちた。この立場から平均値では、
56.5gx1165/131x992/1000g=498.4(kg/1反)
玄米換算398.8kg。福岡さんとの比較は、398.8/540=0.74
全部古株とすると
68.5gx1165/131x992/1000=604.3kg(kg/1反)
玄米換算483.4kg。福岡さんとの比較は、483.4/540=0.90

収穫量の変遷。
2001年 実際の収穫量は43kgだったが、鳥に食べられた分を見積もって、60kgと推定。
2002年 80kg
2003年 48kg
2004年 78kg
2005年 66kg
これで気がつくのが、2年周期で収穫量の増減があり、Biennialの性質を示しているといえよう。多年生(Perennial)と2年生を持っている のか、興味のあるところである。

古株ORの一株あたりの収穫量比較
2002年27.4g
2003年40.0g
2004年71.1g
2005年66.6g
この様に最初の3年は季節順応(田んぼが肥えてきたことにも若干よっていようが)の期間であり、今年は不なり年と推定される。

今年の新株の収穫の様子は、2003年とよく似ている。新株にとって最悪の年といえよう。すなわち、新株はその年の気候に直接的に明 確に影響されている。
4回目の収穫をむかえたORの履歴は示したとおりだが、それ以外については、3回目をむかえた列についての履歴を図7-8-5に、2回目をむかえた列の履 歴を図7-8-6に示す。



図7 -8-5 3回目の収穫を向えた古株の収穫の履歴



図7 -8-6 2回目の収穫を向えた古株の収穫の履歴

それらをみれば、次の様に考察できよう。
3回目の収穫を得た株については、すなわち、2002年に植えて2003年に収穫した新株は、気候不順で2005年収穫の新株とよく似て、収穫量は少な かった。しかし、続く2年は飛躍的によくなっている。
2回目をむかえた株の新株時は、2005年古株としての収穫量とほぼ似ている。2004年の収穫は豊作だった。すなわち気候がよかった。

これらの結果から、田植えをするとその年の気候に大きく左右され、その古株は順次気候順応し、より多収で安定する。来シーズンはすべ てを古株から育てた い。
何故日本ではこの手法が発達しなかったのか。理由は明確ではないが、むしろKWの気候が温暖で、古株が豊かに越冬できたからではないか。

米の作り方
- 多年草性は利用可能かの検討も含めて - 2005年の収穫を終わって

栽培という手法を見出す前に、米食を主体にする東洋人が面々と生きてこられたのは、そこここに米が自生していて、簡単に食料が手に 入ったからであろう。人 類が他の各地でその様に生き延びてきた例は多くあろう。近くの例では南太平洋の島々での様に。孤立した島々で長い歴史を持ちえたのは、そんな背景を持つか らではなかろうか。すなわち、人間の歴史は人が作るのではなく、自然(神)が作り、それを食して生きられるもののみが歴史を創ってきたのではないか。
米は多年生植物といわれる。しかし、実際は毎年播種して稲を育て田植えをして育てている。ここKaiwakaの実験住宅では、普通の方法と切り株から出て くる新しい芽から育てる多年生利用の育て方を5年にわたって試みている。興味のあることに、Acclimatizationの過程を経て、 Biennialを示しながら、古株が安定して新株よりも多い収穫量を与えてくれている。これはその報告である。
多年生栽培がうまく行くと、徐々にAcclimatizeされるとともにSeed bankにもなる。人為的ミスの起こる可能性が少なくなる。すなわち、種まき、苗床つくりなどにおけるミスと苦労が削減される。

クーチはKikuyuの次に駆逐すべき雑草だ。今年の収穫後は、残した古株以外を黒のプラスチックで覆ってしまい、鳥よけネットも加 え、世界に類を見ない 田んぼになってしまった。しかし、来年の4月の収穫期にはすばらしい収穫を確信している。

米や他の作物、草花や果樹の育成において、最もよい方法を見出すために、数量化理論の適用が不可欠だ。

古株からの育成はまだ確立していないので、ここでは田植えからの方法を述べておく。
(1) Kaiwaka近辺での一般的な米の作り方
種は日本で最も北の島北海道からのユキヒカリが適していよう。
田んぼの構築
田んぼに水を保つために、先ず表土を取っておき、30cmの粘土層をしいた後から、表土を埋め戻した。灌漑は隣の池からと計画しているが、まだ水を保て ず、川からポンプアップして供給している。
種の選択
生卵が浮くほどの濃い塩水を作り、沈む種を選び真水でリンス。
真水への浸水と発芽
8月下旬から9月上旬にかけて浸水。3日から2週間状況によって異なるが、真水につけて
発芽を待つ。
苗床への播種。
1,2ミリ発芽した種を、田んぼの隅に作った苗床に霜にあわないように播種。
代かき
田んぼに水を張り、田植えをする前の準備。しっかりとかき混ぜ、田の草も除外する。
田植え
苗の丈が20cm近くなると田植えへと移る。バケツの水の中で1本ずつの苗に分ける。古株から分離すると、1本の苗を得るのに時間がよりかかる。12月1 日前後。
田の草取り
クーチはことに除草しなければならない。稲と同属で水を好むから養分は多く取られよう。
5回やる覚悟が必要だ。
出穂
1月10日頃。田植えが12月1日前後だから40日後くらい。9月7日の播種から4ヶ月120日。
肥料
草の堆肥、草木の灰、スラッジ(尾関タンク)+堆肥(*好気性へ)、lime少々。
排水して乾燥(倒伏防止とストレス)
穂が重くなり倒伏するころを見計らって脱水。田んぼの表面を乾燥させる。根が横に張れずに下に伸びる。そのまま水を与えずに稲刈りまで田を乾燥させたまま にする。ストレス
になって稲にとっても米に養分を移送するけじめになるようだ(温室の稲はいつまでも水があるので、葉が黄色くならない)。
稲刈り
4月19日から3日で旧株の稲刈り。新株によい天気を期待して1週間ほど遅らせて稲刈り。
乾燥と脱穀
稲穂をぽんぽんと手のひらでたたくと、もみが数個分離されるころが脱穀時期。
4月29日からはじめた。吊るすロープは一定の太さが必要。銅線のように細いと草が乾き始めると、するっと抜け落ちてしまう。5月8日から新株の脱穀。

*尾関タンクのスラッジはPreparation500と似ていると思う。したがって太陽と空気に暴露すべきだ。長く嫌気性の環境に いたこととまだ最後の 槽ではアルカリ反応が残っているからだ。しかし、温室の第1浄化池の例でも分かるように、稲はアルカリに強いので、むしろ前者を考えるべきだろう。

この議論は、人間の生活行動が自然にとけ込み、自然循環のサークルを閉じることにな
るのではないか。すなわち、人間の自然にもたらす負荷を根源的になくすことになる。

(VII)2006年収穫の記録
今年は、全部の苗を、古株からの新芽で育てていった。しかし、クーチのために古株周り以外を黒いプラスチックシートで覆ったので、いつもとは様子が異なっ た。
24/10/05 覆われたことでミミズが呼吸できなくなり、古株のところに集まってきて呼吸しようとするので、古株の周りに土を運んできて盛り上げた。 そこに根を広げたクーチも顔を出してきた。それをさらに抜き取った。
28/10 苗床の自生の苗よりも育ち具合ははるかに良い。
12/11 クーチ退治で思ったのは、この盛り上がった土が、乾燥する前に抜いてしまうことだ。粘土質なので石のように固くなるためだ。やっとの思いで クーチ退治終了。
19/11 10株に一つの割で出穂を見つけた。
23-25/11 シートを外す。
26/11 雨が降り、田んぼは満水。大きな雹が降りネットが切れる。
13/12 20株のみ、比較のために自生した苗を田植えした。時期はいつもより遅れて。
1-3/01/06葉鞘褐変病(茎の途中が茶色くなり、同じ色が穂の下部に現れる)発見。出来るだけ切る。しかし、迷いがあり完全には切れなかった。

1,2年前から同様な茎は出ているが、それらからも収穫はあった。今年は特に多い。
小さな白い虫多し。White flyと思われる。イモチはウィルスで昆虫が伝播するとも言われる。
それらの昆虫を食うトンボが今年は少ないようにも思う。プラスチックカバーによってその卵を殺してしまったかもしれない。自然な系を乱してしまったのは事 実だ。
平均的には、1株につき1、2本切った。
今年の12月の平均気温は平年より高いという。しかし、それは前半だけで、後半は思ったほど上がっていない。一月初旬が過ぎた頃からやっと夏らしくなる。
12月初旬の高温で育ちが良いところに低温が来て、この条件にあってしまったのか、いつもの年より多く感じた。
6-9/01 もみに実の入っている葉鞘褐変病(後に判明)の稲は、切るのを避けたが、この2回目の切り取りでは、一輪車1杯になった。勿論切った茎は焼 却炉で燃やした。

11/01 昨年最も多収の第40列LKW2P-2 の両隣の列で、より早くより多く実をもたげていた。40,42,43列もまずまずのスタートを切った。
バケツに13,4杯の堆肥をまく。堆肥には、バケツ1杯の灰も混ぜた。
14/01 岩下さんたちの訪問を受けた。彼によるとイモチは白っぽくなり、収穫は0になるという。どうやらこれはイモチではなさそうだ。では何か。確か にこの2年ほどは、この病気にかかっても全部にではなく、収穫も十分あった。どう解釈すべきか。
文 子さんや理子さんの協力で、病気の種類が判明した。葉鞘(sheath)褐変病とよばれ、鞘の中で穂が形成される頃、気温があまりあがらないとかかる病気 だそうだ。はっきりとした原因はまだ判っていないという。しかし、昨年から残っているこの病気にかかったワラや籾殻、さらには周りの草からもうつるとい う。鋭意切ったのはよかった様だ。まだ残したのもあるが。

10/04/06海老君と稲刈始める。12日までしか2人でできなかったが、14/04に終わることができた。
21/04から脱穀開始。4/05終了。13日もかかっている。
6/05から選別開始。13/05終了。8日もかかった。
計量は14/05に行った。稲刈から1ヶ月以上かかっている。

その結果は、昨年の古株の履歴とともに表7-8-6示すように、収穫は、37.6kgとさんざんなものだった。図7-8-7にもその 比較を示した。




表7-8-6 2006年の収穫



図7 -8-7 2006年収穫と昨年度の収穫の比較

結果を以下のように考察した。
○今年のすべてが、昨年の最も収穫量の低かった田植えをした分(気温が低く昨年最も収穫量が低かった)よりも悪かった。
○昨年3年目の収穫が最もよかったが、今年は最も悪かった。また、最も悪かった田植えの株からは最大の収穫があった。
こ れらが混在していることは、よい収穫を得るために多くの肥料をとりその周りの養分が吸収され次年度は品疎になる。また逆もしかり。すなわち、肥料の補給が 必要であることを示している。さらにいうなら生り年の収穫後はしっかりと肥料を供給してやれば、不生り年は避けられよう。
○では、どの様な肥料が必要か。窒素系のみならず、微量元素やPに注目すべきだろう。
○中央部が膨らみ収量が多くなる傾向は今年もあった。
排水溝めがけて養分が流れるためか、以前から草を焼いたりしたことで肥えていた傾向はあった。
○苗床で見つけた自生の苗を19株田植えしたが、その時期が少し遅れたものの、収穫は60gr/株近くあり、昨年と遜色はあまりなかった。
苗の頃から光が必要であることを物語っていよう。この光は根の育成そのものにも必要であるし、その周りでその太陽エネルギーを吸収して連鎖活動をする草や ミミズやバクテリアなどにも必要なのだろう。
野菜をこの様に育てるとどの様になるか。どの様に対処してやれば、カバーなしと対等な終了が得られるか。また、カバーが籾の場合はどうか。
○もみに実の入っている葉鞘褐変病の稲は、切るのを避けたが、この2回目の切り取りでは、一輪車1杯になった(6-9/01)。勿論切った茎は焼却炉で燃 やした。
○昨年最も多収の第40列LKW2P-2 の両隣の列で、より早くより多く実をもたげていた。40,42,43列もまずまずのスタートを切った(11/01)。
○ 文子や理子や白川さんの協力で、病気の種類が判明した。葉鞘(sheath)褐変病とよばれ、鞘の中で穂が形成される頃、気温があまりあがらないとかかる 病気だそうだ。はっきりとした原因はまだ判っていないという。周りの草からもうつるという。鋭意切ったのはよかった様だ。まだ残したのもあったが。
昨年から残っているこの病気にかかったワラや籾殻は焼却し、その灰を田んぼへ。
○土質の試験は、春と秋の差と収穫の大小を比べたすべきだ。

昨年度田植えのときに2本植えか3本植えかの議論を終わっていなかったのでここにデータを取り出し、簡単な比較をしておく。



表7-8-7 2本植えと3本植えの 収穫量比較

隣り合う列どうし比べても、全体の平均値を比べても3本植えのほうが多く収穫されている(約11%多い)。                                 

来年度目指して、田んぼの手当てを始めた。5月17日から先ず灰を撒き始めた。奥から21列まではワラの灰、アカシアの枝を燃やした 灰は17日に30列ま で、18日に40列の半ばまで撒いた。この列の半分から60列まではワラの灰を撒いた。
堆肥はバケツに100杯近く撒いた。(25/05時点)昨年は12月6日に肥料をやっている。尾関式浄化槽の最後にある液を混ぜるつもり。
翌日26/05から、奥からプラスチックを戻していったが、各株とも太くなっていた。平均で2cm余り広げていった。


(9) 新聞記事など

最近取材を受けた地方紙の記事と報道された地方紙の記事を以下に示す。



図7-9-1  Kaipara Lifestylerの2005年8,9月号の記事



図7 -9-2 Bream Bay Newsの記事

← 第4章  も くじ